朝の祈り

朝の祈り 「この世の習いを捨てて」

日本基督教団名古屋堀川伝道所 島しづ子牧師

 

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。詩編 133編

<情けは人のためならず>

名古屋市緑区にある鳴海教会の付属幼稚園の園長をしていた頃のことでした。Sさんという脳性麻痺の「障害」児を連れたお母さんが、入園を求めて訪ねてきました。それまで軽い「障害」の方は受け入れていましたが、その方は歩行不能で、お話が出来ない方だったので、とても受け入れられないとお断りしました。ところがお断りしてもなかなか帰らず、門まで送るとそこでも「この子は出来るんです。」と粘られて困ってしまいました。

その後、わたしの三番目の子ども(陽子)が、百日咳脳症で入院し、意識不明の日々が続きました。教会の女性たちや親族に看病を手伝って頂き、長引く病院生活をしのいでいました。そんな困り果てた時期に、Sさん親子から「ドーマン法の訓練に人手がいるので、教会の方で手伝って頂けないか」という申し出がありました。何も知らないで、教会の方に紹介も出来ないと思って、私も娘の看病の前後、訓練にSさん宅に伺いました。

その訓練は納得のいくものでした。その後、奇跡的に娘は助かりましたが、脳「障害」のために重度の「障害」を持ちました。Sさんのためにしていた手伝いでしたが、娘にとってもこの訓練法が有効だと思って、のちに訓練施設を紹介して頂き、Sさんが通っている(「障害」児通園施設)愛光園を紹介していただくことになりました。まさに「情けは人のためならず」だったのです。

 

<落ちた>

娘の主治医は退院時に専門の機関に娘を預けたら、と忠告して下さいました。私は世の「障害」児の親がしてきたように、複数の専門病院に娘を連れて行き、診断をしてもらい、訓練を頼みましたが、何処に行っても、答えは同じでした。「あきらめてください。娘さんの脳は全体が侵されてしまってどこをどう治療したら良いというものではありません。」でした。

愛光園に行きましたら、先生方が歓迎してくださり、こう言いました。「お母さん、一緒に陽子さんを育てて行きましょう。」この言葉は希望でした。娘に将来がある、回復の可能性があると言われたような気がしたのです。その後、娘は確かに将来を手にしました。コミュニケーション不能と思われたのに、私たちとの心の交流や彼女なりの成長や変化を見せていきました。

そこに、娘と同じように、「障害」の重い方々がいました。15人前後の「障害」を持った方々が絨毯に横たわっている姿をはじめて見た時、「仲間がいる!」という思いと、心の奥底からこみ上げてきた思いがありました。それは恥ずかしいことですが、「ここまで落ちてしまった」という思いでした。なぜそういう気持ちを持ったのか、自分の中に「障害」者を差別する気持ちがあるとは思いませんでしたが、あったのです。落ちたから上がらなくてはなりません。あがるにはどうしたらいいのでしょうか。いい仕事をする、娘の「障害」を軽くする、息子たちを立派に育てる、そう思いこんで何人分も働きました。ドーマン法による訓練もあって娘は豊かな精神性を表現するようになりましたが、身体的な回復は顕著ではありませんでした。ボランティア活動にも精を出して働きました。炊き出し活動の人手が無い時期、火曜日ごとに娘の入浴と食事を済ませて、娘を小学生の息子たちに預けて炊き出しにも出掛けました。今から思うと、そこまでしなくても良かったのにと思いますが。

娘が養護学校の二年生になったとき、牧師としての仕事や娘の介護に疲れ果てて、鳴海教会の牧師を辞めました。「これからどうするのですか?」と今後を案じてくださる教会の方々に「『障害』児のお母さんたちとグループを作っていきます。」と何の計画も無いままに口に出していました。これも今その通りになっているので不思議なことです。

 

<出会い>

その年は、1987年でした。私と娘の人生の転機となることがありました。疲れ果てて、働く意欲も無いまま、愛光園の広瀬治代先生のご紹介で、ジャン・バニエさんのリトリートと呼ばれる黙想会に娘と参加しました。ジャン・バニエは海軍の将校でしたが、第二次世界大戦後、ナチスの収容所から解放された人びとの姿を見てショックを受けました。人間が人間にこんな酷いことをするのは何故か?何故人間は平和に暮らせないのか?そういう疑問を持って、海軍を辞めて、哲学博士になりました。

熱心なカトリック教徒の彼は、トマという指導司祭によって導かれながら、信仰生活を送ります。トマ神父の牧していた、トローリ村に呼ばれ、そこの精神病院に入院していた知的「障害」者と出会い、哲学教授を辞して、彼らと地域生活を送る決心をしました。今から42年前のことです。「障害」を持つ彼らとの生活は、困難がありましたが、ジャン・バニエは彼らとの生活をとおして、自分自身が解放されていくという体験を積んでいきました。「障害」者が踏みにじられてきた体験からくる怒り、彼らが選択の自由に戸惑いながらも、自主性を取り戻していくプロセスに、ジャンは教えられました。その歩みは共感を呼び、いまや世界に120のラルシュ・ホームが作られています。私たちも名古屋でそれを作りたいと願って、ラルシュ・ホームを目指す「みどりの家」を5年前から運営しています。

1987年のジャンの来日に対して、大勢の参加者が集まりました。神戸のリトリートにはある意味で、これまでの福祉に限界を感じていた福祉関係者や教会関係者、「障害」者の家族が参加しました。講演の内容は本になっています。福祉の関係者がいて、ジャンが「障害」者と暮らしてきたと聴いても、自分の娘のような重い「障害」者とは違うだろう、ジャンだって娘のことは理解できないに違いない、そんな思いがあった気がします。ところが、講演の合間に、私たち親子に近づいたジャンは聴いたのです。「名前は?」娘の代わりに私が答えました。「陽子、太陽の子、Sun Child」と。答えながら、これだけ大勢の人がいるのだから覚えられないだろうに、と思いました。

三日間で6回ぐらい続いた講話の最終回に、ジャンは言いました。「皆さん、私の話を聞いて下さりありがとう。特にヨーコありがとう。」誰のことかと驚く皆を前にジャンは娘と私の方を見ながら言いました。「Sun Child ヨーコ」。覚えていてくれたのです。また彼は不思議なことを付け加えました。「ありがとう、陽子、みなの徴になってくれましたね。」

リトリートの最終で、主催者から頼まれて、陽子がジャンにお礼のプレゼントを渡す役になりました。円になって歌やゲームのあと、娘の膝にプレゼントを置き、車椅子を押していきました。ジャンも出てきて、一つの手でプレゼントを取り、もう一つの手で娘と握手しました。ニコニコとしながら。そのようにされて、娘もニコニコと笑いました。二人を見ていたら、ジャンの姿から声が聞こえたのです。「陽子さん、一生懸命生きてきましたね。私はあなたを尊敬していますよ。神様もあなたを大事に思っていますからね。」

「あなたを尊敬している。」この言葉を聴いた時、私は自分自身が長い間求めていたものがこれであったと気がつきました。

尊敬されるためにはいい仕事をし、娘の「障害」を軽くし、階段を登っていく。ところが登ることができず、ばかにされたらされるがままの私たちを、ジャンが「尊敬している」といってくれた時に、私たちは解放されました。もう登らなくていい、登ろうとすれば、娘を置き去りにし、友人たちを踏み台にしなくてはならない、そんな生き方はしたくないと思いました。その時から、生きることが楽になりました。自分たちを理解してくれる人がいるということが私たちを解放してくれました。それからは人が手がけていなくて、自分が大事だと思うことをしたい、と考えて「障害」児のグループ作りとホームレス支援に自分の仕事を限定してきました。

 

<愛実の会の設立とみどりの家>

娘は1995年、阪神大震災のあった一月にインフルエンザに感染して亡くなりました。16歳でした。娘やその友人たちのためにと準備していたデイサービスを、娘は利用できませんでしたが、私の夢は娘たちがその人間性を尊重される場所で過ごし、自分が死んだら、この人たちは施設ではなく、ラルシュ・ホームのように、家庭的な場所で見守られていって欲しいと思いました。ラルシュ・ホームは、私が知る限り、「障害」者の人間性を大事にし、その声を聴き、尊重する場所でした。その家を作る。この人たちの深い人間性に深く共感して歩んでくれる場所はラルシュという理念でなければ無理だと思っていました。

2001年、フランスのラルシュ・ホームを訪ねました。長い間、ジャンたちとラルシュ・ホームで働いてきた大田美和子さんとギャリさんに出会いました。ギャリさんは「価値観の違う人と生活して下さい。」とアドバイスして下さいました。意味がわからないと言う顔で問いかける私に、ギャリさんは言いました。「私たちは人生の最後まで学び続けなくてはなりませんから。」と。これは挑戦的なアドバイスです。疑問を持ちながら帰りましたが、一年もたたないうちに、このアドバイスが如何に有効かがわかりました。

価値観の違う人と生活し、仕事をし、その結果以前の自分とは違う自分になりました。自分の考えだけが絶対ではなく、それ以外にもいろいろな考え方ややり方があるということを知らされました。違うからこそ一緒に働き、過ごすことで豊かになりました。これは今日の世界の指導者たちが聞かなくてはならないメッセージだと思います。相手の国の形ややり方を叩きのめすのではなくて、違う政治、違う生き方、違う習慣、違う伝統を尊重しあうということです。

愛実の会やみどりの家で大事にしていることは、メンバーの声を聴くということです。言葉で表現された声ばかりでなく、ひとりひとりの姿や態度、体調などから聴くことです。そういう過程を通して、「障害」の違う人を受け入れあうなら、アシスタント(職員のこと)も違いを受け入れあう、弱さを受け入れあうということが大事だと気がつきました。

メンバーの弱さを大事にしても、アシスタントの弱さや欠点を受け入れあうのは難しいことで、如何に私たちが弱肉強食の論理に毒されてきたかを痛感させられます。共に暮らし、共に働くということは、一人でいたら見なくてもよかった、自分の醜さや弱さを見せつけられ、突きつけられます。辛いことです。ですから、祈りが必要になります。

ラルシュ・ホームには長い間の経験によって、如何にこの難しい「共に生きる」を実践するか、如何に距離をとるか、如何に休むか、如何に世代交代するか、といった知恵がたくさんあります。ラルシュ・ホームは人間関係のプロと言えます。

 

<「いこいの家」の知恵>

名古屋駅で凍死・餓死者が数名、という新聞記事から始まったホームレス支援運動も25年以上になりました。おにぎり配りから炊出しに、組合活動、医療支援、食堂と活動が多岐になりました。「いこいの家」は野宿労働者の昼間の家です。昼間、洗濯や簡単な食事作り、昼寝、くつろぐ場所です。一時期、力があって、おじさんたちに自主的に食事を提供するおじさんがいました。良い人ですが、次第に威張るようになり、彼の作る食事が余るようになってきました。「いこいの家」の利用者も減ってきました。

ある日、「みんな来ないね~」と言うと、長い間の利用者が言いました。「人はパンだけで生きるものじゃないからな。」そうです。おじさんたちはお腹がすいていても、威張ったり、無礼な物言いをされる所には来たくなかったのです。これは一大事と、スタッフが集まって協議して、威張っているおじさんを含めたみんなに言いました。「ここは対等に過ごす場所です。数人の食事つくりはいいですが、大勢のものを作るのはやめましょう。」と。私は貼り紙しました。「支配は止めましょう。対等に気持ちよく過ごしましょう。」貼りながら、多分こんなことは無理だろうと思っていました。

ところが、威張る人が来ると、おじさんたちがさりげなく貼り紙を指差したりして、気持ちよい環境になってきました。ある日、私の当番の日に聞かれました。「先生、ここは何年前から続いているの?」「うーん、15年位かな」「そのころからの人いるんかな」「うーん、皆流れていっちゃったかな。そういえば、あなたは5年前からいるね、あなたも長いね~」などと言いながら、その内のひとりの顔を見て気がついたことがありました。利用者の一人は精神的な問題を抱えていたらしくて、いつも落ち着かず、私の顔も見ない方だったのですが、いつの間にか、病的な仕草が無くなって、他のおじさんたちと調和して自然に過ごしておられるのです。彼は誰かが威張ったり、緊張関係がある場所だと病的な状態が続いていたのです。その彼が癒されているという姿に驚きました。そして今の社会がこういった緊張を強いており、病的になるのは当たり前の力関係で動いている不幸を思いました。

いつの間にか、病的でなくなった彼のことを他のスタッフに言うと、スタッフたちも気がついていて、「そりゃそうだよ、他のおじさんたち、彼を大事にして、あれこれ配慮してやっているんだ。」とのことでした。私は天国を垣間見た気がしました。平らな関係で緊張が無い時、人は自分自身でいられます。また力を発揮できます。

 

<対等な人間として>

福音の大事な一面は互いに対等な人間として生きることではないでしょうか。わたしたちの社会は踏みにじられた怒りをさらに弱い者に向ける生き方です。イエス・キリストはこういう力の構造、支配構造を見抜いて、その構造に巻き込まれること無く自由でした。十字架の上で、不自由にされた人々の怒りに身を任せながら、彼らの問題に気づいていたということです。十字架の下にいた人々は怒りで一杯でした。国を植民地とされ、宗教の伝統をばかにされ、暮らしにくい生活を送っていました。人間としての尊厳を踏みにじられていたのです。その怒りをイエスに向けていました。見当違いなことなのですが、歴史はこういう間違いをよくします。

人は誰であれ、不当に扱われると怒りで一杯になることを見ながら、私は思います。人間はそれぞれ「私という人間は尊重され、敬意を持って遇せられるべき存在である」という思いを持たせられているのだ、と。神さまがそのように創られたからです。だから不当な扱いに対する怒りは正当な反応です。神はご自分に似せて人を創られました。神を崇敬するように、隣人を尊重すること、そのことがわたしたちの課題です。