派遣礼拝

派遣礼拝(松浦悟郎 カトリック大阪大司教区補佐司教)

「真実と向き合い、真実を語る」

開祭

人 権についてそして平和について、学校の現場の中で私たちが伝えようとする仕事は重要なことですが、そう簡単なことではないと思います。三つのステージの中 で非常な困難に直面することがあります。一つは社会や政治の動きの中で、平和や人権について非常に伝えにくくなっているということ。もう一つは保護者の動 きの中で、学校をあげて人権教育に取り組むことが困難になることがあります。そしてもう一つの困難は、直接目の前にいる生徒たち自身にどう伝えたらいいの かということです。いろいろな価値観・現実のなかでいろいろなものを受けて成長している子どもたちだからです。

し かしもっとも大きな困難はわたしたちがあきらめること、いろんな困難の中に力を失うことこそ、もっとも乗り越えなければならないところだと思います。この 研修の中で力を頂いたこと、気づいたこと、それを、礼拝の中で神様に強めていただくことができますように。一緒に歩みをともにしている仲間がいることを支 えに歩んでいくことができますように、一緒に祈りたいと思います

は じめにアレン・ネルソンさんの言葉を聞きながら回心のひとときを持ちます。回心、あるいは真実に向き合うことは困難を要するけれども、本当に向き合ったと きに新しい命が生まれてくる。赦しと和解が始まる。そのことを今ネルソンさんの体験を聞きながら味わってみたいと思います。

回心……真実と向き合い、真実を語る

朗読『そのとき、赤ん坊が私の手の中に』

(元海兵隊員 アレン・ネルソンさんの言葉)

「私 は教室で子どもたちの前に出ると率直にはなりきれませんでした。戦場で見てきたことやってきたことをありのままに語ることができず戦争一般の恐ろしさをぼ かして語ったにすぎませんでした。しかし子どもたちはそれでは赦してくれませんでした。次の時間になり一人の女の子が立ち私をまっすぐに見詰めてこう聞い たのです。『ネルソンさん、人を殺したのですか?』

すぐには答えることができませんでした。何しろ相手は4年 生の小さな子どもたちです。私が人殺しをしてきた人間だと知れば大悪人かモンスターだと思ってこわがって逃げてしまうに違いないと思いました。しかし子ど もたちの素直な顔を見ていると嘘をつくわけにはいきません。私は目をつむってやっとの思いでイエスと答えました。すると驚くべき事が起きました。子どもた ちは逃げだすどころか、立ち上がって一斉に私のもとに駆け寄ってきました。そして一人一人が私をしっかり抱きしめてくれたのです。鬼の目に涙といいますが 私は思わず泣き出してしまいました。子どもたちも泣きました。そして友人の教師も一緒に泣いてくれました。このときの感動が私にある決心をさせてくれまし た。PTSDの治療に取り組んでなんとか病気を治し、子どもたちや若い人に戦争の真実を語りたい、と。」

真 実と向き合うことは勇気がいります。それが過ちであればなおのこと、真正面に受け取ることは非常に難しいことです。今の日本はだんだん過去と向き合わなく なった。しかしそこをみつめるということは和解をふみだすこと。新しい命を生み出すことだからこそ行っていくという確信を持つべきでしょう。国家や他者の 過ちならば簡単に追求することができる。しかし今一度私たち自身が抱えている難しさについても振り返って回心をしたいと思います。

「ガ ンジー」という映画の中にこんな場面がありました。ガンジーは差別のない社会を作るためにカーストによる差別のない共同体を作ります。そこで夫婦も一緒に 生活するわけです。ある日妻が怒ってガンジーのところにやってきて、『トイレ掃除の番が回ってきたけれど私はしません。』と言いました。ガンジーはそれを 聞いて怒り、『今すぐトイレ掃除をするか、ここを出ていくかだ。ここは差別・社会階級のない社会だから、あなたも同じようにしなければならない』といい、 妻はカーストの高い身分だったのでしょう、なおも拒否しました。するとガンジーは激しく怒って妻を突き飛ばし、家の外まで追い出すところまでいきました。 彼女は泣きながら言いました。『私はあなたの妻です。』ガンジーはへなへなと座り込んで頭を抱え、そして立ち上がって、『もうトイレ掃除はしなくていい』 といいました。そしたら彼女は『あなたもお疲れでしょうから中でお休みください。私はこれからトイレ掃除をします』といって出ていきました。

こ のことは非常にたくさんのことを教えているように思います。ガンジーが妻にトイレ掃除をしなくていいと言ったのは、理想をおろしたのではない。そこに到達 できない妻を思い、夫と妻との関係のなかで妻という一人の人を大切にしようと思った。理想を掲げたまま、それを受け入れられない妻を大切にするという道を 選んだ結果、妻は掃除をするといいました。

私 たちは、こうあるべきだと掲げたときに、それに向かっていくプロセスの中で、そうできない人たちとどう関わっていくか。自分自身のことならどんなに反対が あっても貫けばいい。しかし時に人と人との関係の中で難しい局面に立たされることがあります。答えは出ません。しかしそれを悩みながら、避けないでみつめ ながら、一人の人間を大事にすることと理想を曲げないで生き続けるというということをしっかり見つめながら、助けを求めながら、迷いながら選び取っていく しかないと思います。神様の光と導きを心から願いたい。そして様々な人を傷つけたことに赦しを願いたい。その意味で憐れみの賛歌を一緒に歌いたいと思いま す

歌 あわれみの賛歌

●祈りの中で振り返る

学 校の中で生徒たちに、人権について平和について何とか伝えたい、そう思います。たくさんの知識より二つの視点を何とか生徒に伝えることによって、生徒たち が自分の人生の中でその視点を携えながら歩んでいけるのではないか。その二つの視点について、いろいろな記事の朗読を通して、また聖書を通して味わいたい と思います。

天声人語に「一瞬のためらい」という記事がありました。パレスチナの女性が自爆テロをするために歩いていたそのときの話です

朗読「一瞬のためらい」

「彼 女は重いバックパックを背負って歩道を歩いていた。バックパックには自爆テロのための爆弾が入っている。彼女は迷い始めていた。正しいことをしようとして いるのだろうか。私を待ち受けているのは地獄なのか、天国なのか。私は空を見上げた。そして子どもの頃信じていたこと『他人の人生を遮る権利は誰も持って いない』を思い出した。――そうして自爆テロを思いとどまった20歳 のパレスチナ女性のことをアメリカ誌が紹介していた。自爆テロの志願者は訓練されたテロリストだけでなく女性や年少者に幅を広げている。現状の深刻さを物 語っているが、彼らが実行のときためらいはないのか、いつもそのことが気になっていた。一瞬のためらいがあっていいはずだ。そうしてそのためらいは貴重 だ。そう思ってもいた。」

私たちは人生の中で大きな流れの中に何も考えずに流されているときがあります。あるいはまわりがこれは当然なことと、これは正しい、という雰囲気の中で、何も思わずそれが正しいと思って歩んでいるときがあります。

大 江健三郎が今の社会を、「何かぼんやりしているものでこの国はどこかに導かれている」といいました。たしかにどこかに流れていきます。そのとき、この道で いいのだろうかとふっと思える「一瞬のためらい」――それは私たちにあるのだろうか。このパレスチナの女性は当然正しいことをしていると信じて、その決意 を持って自爆テロに向かっていました。しかしある時点で空を見上げた。これでいいのだろうか、正しいことをしているのだろうか、その「一瞬のためらい」を おこしたものはなんだっただろうか。いつかたぶん学校で聞いた言葉でしょう。「人の命を誰も奪う権利はない」――その言葉が彼女のためらいを生み、自爆テ ロに向かう道から逆の方向へ戻ってきました。

本 当の平和、本当の命、真実に向かって歩みを向け直すための「一瞬のためらい」、それをおこすものがどれだけ人生で与えられたか。あのとき一生懸命これが大 事だと伝えてくれた、あのときの先生の熱心さ、あるいは学校からどこかに体験学習に行って証言を聞いた、あるいはクラスの問題をみんなで一生懸命話し合い をした、……我々には分からないけれどその一つ一つの体験の何かが「一瞬のためらい」、命や平和に向かう新しい歩みを始めるためのためらいになるに違いな い。なにがそうなるかはわからない。私たちがそれを一生懸命示し続けること、与え続けることで、子どもたちの心の中に着実にはぐくまれていくに違いない。 その何かを彼らの人生の中に、いつか具体的な意志を持った歩みに位置づけてほしい、そんな願いを持ちます。みことばをききます。

ヨハネによる福音書1429節~30

「事が起こったときに、あなたが信じるようにと、今、そのことの起こる前に話しておく。もはやあなた方と多くを語るまい。世の支配者が来るからである」

歌 幸いなるかな

い ろいろな難しいことを選びとりながら、人は人生を歩んでいきます。社会のあり方も選び取っていきます。いろんな理由があり、いろんな視点がある。そのとき その中で何を大切にしなければいけないのか、生徒たちといっしょにそこに立ち、その視点でものを考え、世界を見るということが大事でしょう。粕谷甲一とい うカトリックの司祭が「十字架上の仏陀」という本を書いています。その中に引用された二人の人の言葉を聞きたいと思います。アフガニスタンのバーミヤンの 石仏が破壊されたというあの出来事に関しての二人の言葉です。

朗読:中村哲さんのことば

「あ の仏像のいたましい姿はわたしに一つの啓示を与えているように思われた。その破壊された石仏のいまわの沈黙は、よしや無数の岩石片になりはてても全ての人 間の愚かさを一身に背負って生き、かつ全ての人に内在する仏性をよびさまそうとする意志を示している。それは神々しくさえ思え、騒々しい人間界の上に超然 と確かに何ものかを指し示しているように見えた。自分は一人のキリスト教徒であってイスラム教徒でもなく仏教徒でもない。しかし石仏の破壊は、偶然とはい え21世 紀の初頭をかざる象徴的な事件のように思えてならない。タリバン側は偶像破壊による民心の浄化を唱え、国際社会は人類の文化遺産保護をあげて、火花を散ら した。両者の奇妙な類似性は 干ばつで痛めつけられた何百万人もの犠牲者は眼中になく、限られた人口による政治性と自己主張が平行線をたどったことであ る。」

イスラム教徒マルファバル氏のことば

「ま だ心が石になっていなかった唯一の人はあのバーミヤンの仏像であった。あれほどの威厳を持ちながらこの悲劇の壮絶さに自分の身の卑小さを感じ、恥じて崩れ 落ちたのだ。仏陀の清貧と安寧の哲学はパンを求める国民の前に恥じ入り、力尽き砕け散った。仏陀は世界にそのすべての貧苦・無知・抑圧を伝えるために崩れ 落ちた。しかし怠惰な人類は仏像が崩れたということしか耳に入らない。こんな中国のことわざがある。あなたが月を指させば愚か者は月ではなくその指を見る のだ。誰もが崩れ落ちた仏像が建っていた場所で死に瀕している国民を見なかった。」

今 の二人の人の言葉を読んだとき大変恥ずかしい思いがしました。あの事件を確かに私もテレビで見ました。やはり瞬間的に世界遺産が壊されていくことに胸を痛 めた自分があります。あの砕けた石像の下にいた、何百万もの叫びを上げる人々に国際社会は眼をむけなかった。その何百万もの人々の思いを石仏が自ら負って 砕けたのだ。その瞬間そのように言える人、この出来事をそのように見られること、それがわたしたちにとってとても大事なことではないか。長崎・広島に原爆 が落とされ、より多くの人を救うためだとか戦争を早く終わらせるためというもっともらしい理由が今も堂々と歩いている。それだけ聞くとそういう意見もある のかと迷う人もいるけれど、原爆を、キノコ雲を、飛行機の上から撮った側からものを考えるのか、あの地獄の火の中で逃げまどった人の側からものを考えるの か。

あ らゆることを選ぶとき絶対にこちらが正しいというものはないでしょう。しかし落とす側の飛行機のうえからの「理由」と被害を受ける側に立って考える「理 由」では、やはり火の中で逃げまどう、弱い立場の人々の側に立ってものを考えるほうがより真実に近い。イエスはまさにそのことを示し続けたのではないかと 思います。選ぶのに迷ったとき何かを見失っているとき、私たちはどこに立ってものを考えるか、私たち自身もその立場に立って一緒に考えようと生徒に伝える こと、彼らが自分の人生の中で常にそういう立場を選び取っていくこと、それが大事ではないかと思います。みことばを聞きます。

マルコによる福音書1013節~14

「イエ スに触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子ども たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのようなものたちのものである』(中略)そして子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福され た。」

歌  幸いなるかな

●グループ発表

昨日の分科会での話、討議、けさの分かち合いをふまえてグループごとに祈りを捧げます。その祈りを主が受け入れてくださり実現してくださいますように心から願いながら祈りましょう。(祈りの間に「キリストの平和」を一節ずつ歌う。)

第一分科会の祈り

平和教育とは、あらゆる人々の 共生のために労苦する感覚をもった人格形成を目指す教育だということを私たちは確認しあいました。私たちが学校・教会・その他の現場の中で平和教育の担い 手となり、また将来担っていく若者を育てていけるようお導きください。教育基本法改悪など困難な時代の中で、今回のテーマにあるように私たちが時代を作り 出すものとなれますよう、勇気をお与えください。

第二分科会の祈り

私 たちは「子どもの人権」というテーマで障害者特別支援法について学びました。私たちは日々子どもたちと接するなかで、子どもたちに生き生きと自分らしく生 きてほしいと願っています。そのために一人一人の考え方のちがいや感じ方のちがいをうけとめて、支援していくことが大切だと学びました。子どもたちが出し ているサインに気づき、共に歩めるようお導きください。そして子どもたち、大人、全ての人が自分を大切にし他者を大切にできる、幸せで平和な世界になりま すようにお導きください

第三分科会の祈り

自 分のあり方を端的に表す言葉がないもどかしさと懸命に向き合い、話される講師の姿に、人と人とのあり方、そして様々な人たちをどのように大切にするか、も う一度考え直す必要を感じました。世間のチューニングに会わせるのでなく自分のチューニングを大事にできますように。うその「らしさ」でなく本当の「自分 らしさ」を生きていけますように。男や女の形にはめられず「曖昧に」生きることのできる道を作れますように。自分の居場所を作ることが他の誰かの居場所を 作ることにつながります。どうか私たちに与えられた生を自分らしく生きることができますように導いてください。

第四分科会の祈り

相 手からの嫌な要求を受け入れないと愛されなくなるのではないかという自信のなさ、また、相手を組みふせるということを自己実現と錯覚することは、自尊感情 の低さから来るのです。このままで大切にされる「アガペー」を受けている私が、また「アガペー」を伝えるものとなっていくことができますように。

第五分科会の祈り

私たちは被差別地区の担ってきた皮革産業の歴史、文化、役割の重要性について学びました。フィールドワークに参加して差別の実態から学び、わたしたちは差別をなくす訓練のために力を身につけていきたいと願っています。

第六分科会の祈り

美しい言葉で痛みや悲しみや怒りを語るのでなく、不器用に自分の言葉で、ここで与えられた出会いを喜びのうちに語るようになりたいのです。主よ、どうか、友と共に私たちの傍らにいてください。

第七分科会の祈り

外 国籍の子どもが多くいます。自分の国籍を名乗ることのできない子どもたちが私たちの周りにたくさんいます。臆せずきいてみる勇気をお与えください。それを 分かちあう勇気をあたえてください。やってみたらうまくいくかもしれないと信じさせてください。知らない文化なのだから下に立って教えてもらう、彼らから 聴いてみる姿勢を私たちに育ませてください。子どもが送ってくれる訴えに気づかせ、彼らの声のない声を聴かせてください。国籍にかかわらず子どもたちの学 ぶ権利と進路が保障される世の中になりますように。差別事件は前に進むよいチャンス、とここにいる全員が一歩踏み出せますように。アジアから南米から来た 文化の違う同僚ともお互い尊重し合い、支え合って日々のわざに励めますように。できるだけ地域の他のネットワークともつながっていけますように。

第八分科会の祈り

さ まざまな現場でさまざまな課題を持って、さまざまな子どもたち、人たちと向き合っている私たちがここに集められて、そのようなちがいを持った一人一人がち がいを持ったままつながりあい、分かち合い、変わっていけるということを、頭と心と体をもって体験できた豊かな時を感謝します。危うい方向へと舵を取りつ つある現代日本社会のただ中にあって、2000年前にガリラヤで主イエスが語られたみことばが、全てのものに開かれたものとして語られ体験され生きる力となるために、「欠け」多き私たちをその「欠け」をも用いてお遣わしくださいますように。

私たちが今捧げた祈りを主が祝福して受け取り分かち合い実現してくださいます。心からそのことを信じながら、今新しい歩みに向けて一緒にドナル・ドールの主の祈りを一緒に唱えます。

ドナル・ドールの主の祈り

(全員)天におられる私たちの父よ み名が聖とされますように  み国が来ますように。

(先唱)またそのみ国を促進するために、私たちも具体的な行動を起こすことができますように。あなたが望まれる国、すなわち     愛と平和と正義を土台にした社会をつくることができますように。

(全員)み心が天に行われる通り、地にもおこなわれますように。私たちの日毎の糧を教もお与えください。

(先唱)誰も飢えることなく、また誰も贅沢にふけって、人の飢えと死に無関心になってしまうことのないように、全ての人が例外    なく意義ある仕事を得て日用の糧に恵まれるような、そんな社会をつくる力をお与えください。

(全員)私たちの罪をお許しください。私たちも人を許します。

(先唱)あなたの国をこの世につくりあげるために、あなたと協力するよう呼ばれていることを信じなかった私たちを許してくださ     い。また、不正と圧迫を見ながらも、見過ごしにしてきた多くの怠りの罪を、ゆるしてください。また、絶望と分裂を引き起こ    している社会にあって、身近なところから心を一つにして生きようと全力を尽くさなかった私たちをゆるしてください。これか    らはあなたからいただいている勇気をもって、あなたとお互いとの協力ができますように。

(全員)私たちを誘惑に陥らせず、

(先唱)今の悲惨な誘惑にある世界を見て、絶望する誘惑に陥らないように。

(全員)悪からお救いください。

(先唱)選ばれた民族を奴隷状態から解放し、約束の地に導かれたように、私たちをすべての不自由と抑圧から解放してくださ    い。モーセとデボラ、ユディットとダビデのような指導者たちを私たちにも立ててください。私たちもその指導者たちと協働し    て、真の自由に導かれますように。

(全員)アーメン

(ドナル・ドール著「霊性と正義より」)

共に歩んでいく多くの仲間がいると感謝しながら全ての人に平和がありますように願いながら握手をして平和のあいさつを交わしましょう。

平和のあいさつ  (周りの人とお互いに握手をし、「主の平和」と唱える)

閉祭

歌 私を平和の道具としてください