朝の祈り

朝の祈り

河野 淳さん(カトリック横浜教区司祭 正義と平和協議会、部落問題委員会)

奏楽 中村 証二さん

 

1.歌「こころからの感謝を」

 2.聖書朗読「マタイによる福音書6:5~15」

 3.歌「平和の祈り」

 4.祈り「ヨハネ・パウロ二世 広島『平和アピール』より」

 すべての人々に、私はここで預言者の言葉を繰り返します。

 「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦 うことを学ばない。」(イザヤ2:4)

 神を信じる人々に申します。われわれの力をはるかに超える神の力によって勇気を持とうではありませんか。 神がわれわれの一致を望まれていることを知って、団結しようではありませんか。愛を持ち自己を与えることは、かなたの理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だということに目覚めようではありませんか。最後に、わたしは自然と人間、真理と美の創り主である神に祈ります。

神よ、わたしの声を聞いてください。それは、個人の間、または国家の間でなされた、すべての戦争と暴力の犠牲者たちの声だからです。

神よ、わたしの声を聞いてください。それは人々が武器と戦争に信頼をおくとき、いの一番に犠牲者として苦しみ、また苦しむであろうすべての子どもたちの声だからです。

神よ、わたしの声を聞いてください。わたしは、主がすべての人間の心の中に、平和の知恵と正義の力と兄弟愛の喜びを注いでくださるよう、祈ります。

神よ、わたしの声を聞いてください。わたしはすべての国、またすべての時代において戦争を望ます、常に喜んで平和の道を歩む無数の人々に代わって、話しているからです。

神よ、わたしの声を聞いてください。わたしたちがいつも憎しみには愛、不正義には正義への全き献身、貧困には自分を分かち合い、戦争には平和をもってこたえることができるよう、英知と勇気をお与えください。

おお、神よ、わたしの声を聞いてください。そして、この世に終わりなき平和をお与えください。

5.お話

おはようございます。ご紹介にあずかりました、河野淳(こうのあつし)と申します。カトリックの司祭をしています。この川崎に今住んでいます。この3月まで小田原にいたんですけど、異動になりまして川崎の教会に今住んでいます。教区の中では、横浜教区といいますけども、正義と平和協議会と部落問題を担当しています。自己紹介にも書きましたけども、学校が嫌い、先生も嫌いということで、あまり学校には近付かないようにしていたんですけど、今回は特に「人権」ということで、これを入れられると断ることができないということで参りました。学校とか教育とかいうことはさておいて、「人権」ということで繋がって、お話したいと思います。

結論をひと言で言いますと、「心が大事」とかそんな言葉に簡単に乗らないでください、ということを言いたいんですね。大事に決まっているんです。宗教はずっと心のこと…、人権とか平和でもやっぱり「心が大事だ」、「ひとりひとりの心持ちが大事だ」、当たり前のことだ…そうなんですね。でもそんなことに簡単に乗っていいのかな、というのが最近の私の思うことなんです。「平和が大事、戦争はダメ」と大抵の人はそう言いますね。大抵の人は本当にそう思っているでしょう。だけど具体的なひとつひとつの選択の中では戦争に賛成したり、そっちを選んだり…、直接賛成しなくても、それをする人のほうを賛同してしまっている。

この間、川崎で無防備平和条例を作ろうという直接請求運動がありました。これはずいぶん各地で行われていまして、実は私、小田原では結構中心になってやってきたのですが、たまたま川崎に移ってきたら、ちょうど川崎では運動が始まる時期で、こちらも少し手伝ったのです。本気で武器をなくして平和を作る方法、道を探っていきましょうということですね。いくら武器をたくさん持ったって、軍事力を強くしたって、危なくなるばっかりで全然安全にも平和にもならない。そんなことやめて本気で武器なしの努力をしていきましょう、という訴えなんですけども、そういう条例を作りましょうと。それが川崎の市議会で審議されまして…、市議会ってひどいところですね。学級会からやり直して欲しいというか、学級会のほうが100倍ましですね。その中で、ある市議がこんなことを言ったのです。その市議は…市議会なので与党も野党もないのですが、国政では与党側にいる人、戦争やっている当事者ですよ。今、日本は戦争に参加しているわけですからね。戦争やっている当事者であるその与党の党員が、「平和は心の問題ですから、啓発活動していきましょう。」と言うんですよ。あなた戦争やっていながら何を言っているんだ、戦争やっている人が「平和は心の問題ですから」なんて、あなたに説教されたくないよという感じですけど、そんなこと言うわけですね。戦争やっていながら「平和を大事に。平和は心から」なんて。そんなのに乗っていいのでしょうか。簡単に「全ての人は平和を望んでいる」と言う人もいますが、つきつめて言えばそうなのかもしれませんが、戦争したがっている人もいるわけですね、ごく一部。戦争しないと儲からないから戦争したい。そのために日夜努力しているわけです。そのための宣伝をして、みんなの心をそっちに持っていこうと努力している人たちがいる。そういう人たちに結局だまされちゃうわけですね。だまされないためには、心がどうのこうのと言っているよりも、確かな知識を持つことが一番なんですね。そうすればだまされないで済む。もちろん心が大事だと思って言っているのですけど、それだけに乗らないで、具体的なひとつの問題でだまされないように、ひとつひとつ何を選択していったらいいか、しっかり見据えていくことが大事だと思います。

 「心の教育」なんて言われまして、その言葉がはじめに言われたのはずいぶん前ですが、本当に恐ろしいと思ったんですね。何度も言いますが私は学校が嫌いで、高校の時には、もうこの人たちには教育されないようにしなくちゃいけない、と思って卒業したんですね。くだらないことを言うわけですよ。髪の毛がどうの、ベルトがどうのって…反発するのもばからしいことをいろいろ言われまして。まぁ、別にそんなことはどうでもいいことだから表面上は従っていようかと。だけども心の中までは踏み込ませないぞ、そこだけは自由だ、あんたたちの言いなりにはならないぞと思っていた。そうしたら心の教育なんて、そんな冗談じゃないですよね?今や日の丸や君が代とか、生徒が従わなければ教師が罰せられる。生徒が教師の言うことを聞かないなんて当たり前のことなのに、それで教師が罰せられるなんておかしなことだなと。さすがにそこは嫌いな先生でも味方してあげなきゃいけないかなと思いまして。

話は変わりますが、カトリックでは今、殉教者列福とかやっているんですね。一昨日、幸田司教さんは教皇が言うから正しいとは必ずしも思わない、と小さな声で言っていましたが、私は司教が言うから必ずしも正しいとは思わない、と思うのですけども。そんな司教さんも昨年ちょっといい文章を出したんですよね。信教の自由と政教分離が危ないと。それで日本のカトリックは16の教区に分かれているんですね。狭い日本をちまちまと細かく分けて…その教区の中では司教というのは絶大な力を持っているんですね。本当に狭い世界ですけど。ですから全部の教区の司教が首をそろえて、その文章のひと言ひと言をいいですよ、とやるのは本当に大変なことなんです。それでも結構いい文章が出ました。さすがにもう危機感があるんでしょうね。政教分離が危ない、信教の自由が危ないと。そこで、僕らもそれを受けて勉強しようかと。政教分離は国によって文脈が違ってきますから…想定される宗教が違うわけですね。日本だとやっぱり国家神道。国家神道って何だろう?…よく聞くけど、ちょっと掴み所がないから勉強しようと、勉強を始めました。国家神道のことをやると、もちろん靖国のことも出てくるわけですね。そんなことをしていたら、殉教者列福…ん?これは靖国とどう違うのかな、と首を傾げてしまうわけです。あれ、どうなっているんだろうか?といろいろ疑問が出てくるんですね。別に表立って非難しようとは思わないけれど、いろいろ疑問があることは確かなことですから。殉教者と言ってもその時代に迫害されたのはキリシタンだけではないよな、その中で同じ宗教で死んだ人だけ特別扱いして、その時代のことをちゃんと分かるのかな?本当の事が分かるのかな?ひとりひとりの生き方から習いましょう、それもいいでしょう。それにケチを付けるつもりはないですけども。でもそれだけじゃ本当のことはわからないのではないかなと。また、宗教者というのは「死」に弱いですね。宗教者だけではないかもしれないけれど、「追悼しましょう」とか「慰霊しましょう」とか言うと、それに反対ってなかなか言いにくい。でも、そもそも死者を弔うことってどういうことなんだろうか?宗教はどうしてもやらなくちゃいけないことみたいですけど…どういうことなんだろうと。ちょっと勉強会してみましょうかと、今実は計画中なんです。まだ詳細は決まっていないのですけど、11月くらいに。11月はカトリックでは「死者の月」と言いまして、その月にあわせて死者との向き合い方ということで、お坊さんを呼んだりキリスト者も呼んだりいろいろと、靖国との関わりとかのなかで、どういう意味なのかと勉強しようと今準備しています。多分、川崎の南部のほうのどこかの教会で行われると思いますので、もし興味があればお知らせしますから連絡先を教えてください。

殉教とか迫害とか、私のなかでは、今すごく日の丸・君が代と繋がってくるんですね。逆踏み絵といいますか。それを歌うとか立つとかで選別される。現場の先生たちはいろんな状況の中で、それぞれ苦しんで答えを出していると思うんですね。本当にやむなく教師を続けるために歌わざるを得ない、立たざるを得ないという選択をしている人もいるでしょう。あくまで座るんだという選択をしている人もいる。中には、やっぱり続けられないと辞めていく人もいる。それぞれ苦しい中で自分の道を決めている。ですから「殉教者賛美」というと、ではその中で立たないで処分された人だけが偉いということになってしまうのか。そんなことはないですよね。それぞれの選択が尊重されるべきだし、そもそもおかしいのはそんなことで苦しまなくちゃいけないという状況ですね。ひとりひとりがどういう思いか、それを聞くことも非常に大事なことでしょう。だけど、周りの人がしなくてはいけないことは、そんな苦しみ…そんなことで苦しまなくていいように、そんなことは自分たちで決めさせてくれ、勝手に決めるな、といったことでしょう。そういうことをやっていくのが私たちの、まず考えなくてはいけないことだと思っています。

そんな殉教者を讃えるということよりも、どうしたら殉教者が出ないですむか。本当に自分の信念とか言いたいこと、思っていることを…それをちゃんと生きられるように、そんなことを目指していきたいと思っております。

ただ心の問題ということに閉じこめてしまうのではなくて、それが本当に自由に表せるような場作り、私たちの生きる場所を作っていく、そんなことを一緒にしていけたらと思っています。

6.主の祈り

 天におられるわたしたちの父よ、 み名が聖とされますように。

 み国が来ますように。

 みこころが天に行われるとおり 地にも行われますように。

 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

 わたしたちの罪をおゆるしください。

 わたしたちも人をゆるします。

 わたしたちを誘惑におちいらせず、

 悪からお救いください。

 国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。

 アーメン。

 7.歌「主は水辺に立った」