開会礼拝

希望を持って生きるために -キリストの日に向かって-

関田寛雄

フィリピの信徒のための祈り フィリピ1章3節~11節

「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」

みなさま、こんばんは。関田寛雄です。

名古屋高等学校・中学校、それから、金城学院の関係の方、現地の実行委員の方々、それからキリスト教学校同盟の原島先生が参加して下さった意義深い今回のセミナーについて、基調報告でもれなく話して下さいましたので、私はなにも言わなくても、と思いますけれども、特に青柳先生のことを私なりに違った角度からお話しようと思って、いま立っているわけであります。

「人権」という問題に関心を持ち、それに巻き込まれてきて、そのことが私のキリスト教会の牧師として、そして大学の教員としての内容的なすべてだと思いはじめたのは、やはり川崎市の桜本における在日コリアンの方々との出会いがきっかけでした。

1955年から私は旧約聖書の学者でもあり、また砧教会の牧師でもあり、かつ青山学院大学神学科の学科主任でもあった恩師の浅野順一という方に導かれて、川崎に開拓伝道に入ったわけでございます。それ以来ずっと川崎にこだわり続けて今年は51年目になります。

私の父親も関西学院の神学部を出た牧師ですが、父の後輩に、中森幾之進という山谷伝道で生涯を終えられた牧師さんがおられます。この方が「山谷の伝道は、山谷の人間がしなきゃいけない。そのために、山谷無為化塾(「無為と化す」という親鸞の言葉をもじった名前)という塾をつくったので、手伝いに来てくれないか」と言われたことがありました。「それは光栄でございます」と申しましたら「そう言ってくれるならうれしいね。だけどね、そういうことだから、交通費が出ないんだよ」「あ、交通費なんて自弁でやりますので、喜んで行きます」「そうかい。それでね、あのぅ、実は謝礼も出ないんだよ」「あ、いやもう、けっこうです。もう、すべて自費で行きますので」「そうか、いやぁ君だからそう言ってくれると思ってね。頼りにしとったんだよ。実は少々献金がいるのでね」ということで、とうとう山谷に「無為化塾」をつくることにはめられてしまいました。その中森先生が「伝道者ってものは、遣わされた土地を愛さなきゃいけないよ。土地にほれなきゃいけない。土地が好きになったら伝道は必ず成功するんだ」とをおっしゃっていたんですね。そんな影響もあったのでしょう。川崎で五十年を越えました。

当時の川崎は日本鋼管を中心とする大気汚染がひどくて、それこそ日本鋼管の溶鉱炉を中心に、半径5キロの地域に1平方キロメートルあたり、1ヶ月90トンの粉塵が落ちるんです。その地域に私の教会もすっぽり入る。子どもたちは粘膜をやられます。目とか鼻とか喉とか、中には喘息、気管支炎、それから肺ガン。そういう公害病患者が続発している。「こんなところから早く逃げ出して行きたい、新約学の勉強の方が大事だ。こんな泥臭い開拓伝道なんていい加減にキリをつけて、どこかもっと勉強しやすいところへ行きたい」なんて思い続けながら、年が過ぎていくんです。当時、青山学院の神学科には佐竹明とか、新井献とか新約聖書学でピカイチの学者がドイツから帰ってきていて、私も新約学の研究室に残ったものですからしのぎをけずるんです。佐竹明は「おれは牧会しない」新井献は「おれは牧師にならない」って言うんですね。私だけが牧師になって、しかも粉塵の舞うところでの開拓伝道。在日コリアンのたくさん住んでいる現場での伝道。「こんな損な役割はないなぁ。なんとかもっと勉強のできるところへ行けないかな。伝道と研究と二足のわらじを、なんとかどっちか一足にしてもらいたい」と思って、ある時浅野順一先生のところに相談に行きました。「あたしは三足はいていました」と言われて、二の句が継げなくて帰ってきたわけなんです。それ以来、「浅野先生には私事については絶対に相談に行くまい」と思って、それで結局50年たったわけです。

その間に、ふたつ教会を設立いたしました。ひとつは桜本教会。私の後任者は藤原繁子という婦人牧師でありますが、本当にすばらしい方でして、私の方向性をよく受けとめて下さった。日曜日と木曜日のお昼、100人からのホームレスの方々に食事を提供していらっしゃる。実働教会員は20人そこそこの教会ですけれども、もう死にものぐるいで一週間に2回、食事を提供していらっしゃる。

藤原先生って方は東京の木場に育った人でございますので、啖呵が切れるんですよね。ホームレスの方々も慣れてまいりますと甘えが出てくるんで、「今日のみそ汁、具が少ねぇなぁ」。そうすると、藤原牧師がピッとなって「気に入らないなら出て行きなさい!私たちがどういう思いで食事をつくってるのかわからないのか!」って啖呵切るんですよ。もう、ホームレスの相当年季の入った人もビビって真っ青になっちゃう。そういう中で、しかし先生の説教に打たれてホームレスのままで洗礼を受けて下さる方があるんです。

いつかの感謝祭の説教で「今日は教会の暦で感謝祭でございます。夏の実り、秋の収穫、感謝する日です。けれども、リストラされたり、友人の保証人になって裏切られたり、行政とかかわってもさっぱり歯車がかみあわなかったりで、なにが感謝かと思っておられる方がおられるでしょう。だけどね、今日というこの日に仲間と一緒に巡りあって、食事をわかちあえるということをありがたいと思う心があるならば、人間としてその方は最高なんですよ」っていう説教をされました。満杯ですから私は床に腰をおろして説教を聞いているんですけれども、後ろから見ていると、何人かのホームレスの方が、そっと、涙をぬぐっていらっしゃる。「あぁ、藤原牧師の説教の言葉が届いているなぁ」。そういう中で、ホームレスのままで洗礼をお受けになる。そうすると彼らは今度はホスト側として仲間のお世話をするわけなんですよ。彼ら自身が仲間に「タバコはここに捨てろ!」「トイレでタバコを吸うな!」「おとなしく2列に並んで待ってろ!」ってピシッとルールを守らせるわけですよ。近所の方々も、最初の頃はずいぶん批判ごうごうだったけれども、この頃は理解してくださってね。「毛布があまったから」とか「お米がどうだ」とか桜本教会で地域に根ざした働きをしていらっしゃる。

もうひとつの戸手教会。これも私の後任の孫裕久(ソンユウグ)という在日二世の牧師が、韓国からの留学生だった今のおつれあいと出会ってやっていらっしゃる。ここでも多摩川の河川敷ですので水害があるんです。実は河川敷にあるこの家は、巨済島(コジェド)から強制連行されてまいりました、金万守っていう方の家でした。九州で陸軍の防空壕をつくるためにこき使われて、やっとの思いで敗戦を迎えて、人づてに九州から川崎までやってきた。そして古タイヤの売買をしてやっと命をつないできた。素人がつくった家ですからどこかガタガタしているんですよ。それを私の戸手教会は教会堂として買い取ったわけです。そこで、いまも礼拝を守っております。地域住民の8割はコリアン。そのさらに8割が朝鮮総連の方々。

実は今、土地の開発が進んできまして、ウォーターフロントがつくられるというので、教会以外の家はほとんど全部除去されました。出て行かざるをえなかったわけです。もう4、5軒零細企業を営んでいる方々が納得できる権利を保障されて立ち退くのを見届ける、それを最後に戸手教会は出て行く、ということで、今なお残っています。そして毎週水曜日に一人暮らしの古老の方々に「水曜サロン会」という200円で朝鮮料理をわかちあう会をやっておりますが、立ち退いた方が遠くからも、やっぱりなつかしくて10人、15人と集まってきます。日本人のボランティアと一緒に食事を食べながら、時に歌ったり、時に踊ったり、一番の人気は寅さんのビデオを見るということですけれどもね。そんなことで、私のあとを本当によくやってくださる、後継者に恵まれたなぁと感謝しております。

私自身は1997年に青山学院大学を定年退職すると同時に戸手教会の方も退きまして、いまは日本基督教団神奈川教区の巡回教師として、あちらこちらの無牧の教会、あるいは休暇中の牧師さんのお留守番、あるいは様々な困難な問題のある教会をお手伝いしながらあっちへ飛びこっちへ飛び、それこそ寅さんらしく旅人(たびにん)を続けておるわけです。そういう中で、「イヤだイヤだイヤだ」と思いながらここまで二足のわらじを履き続けてきてしみじみ思いますのは、負け惜しみじゃありませんけれども、そんなにたくさん本を書いたわけでもないし、業績をあげたわけでもありませんが、二足のわらじを履いてきたからこそ、キリストをどう理解するか、キリスト教をどのように現代社会に、特に痛みと貧しさの中にある人にイエス・キリストの福音が本当に力強く述べ伝えられるための神学は、どこから発想しなきゃいけないか、どこに立って神学というものを考えなきゃいけないかということが、わかった気がするんです。

要するに、大学という世界はなによりも、業績をまず考える。年間何本論文を書くかということが、一番の目標であって、学生に対する教育的な配慮とか、いろいろ相談事の相手になるとか、そんなわずらわしいことは大学の教員のすることじゃないっていうのが、いまの風潮です。キリスト教主義の学校の中にもそういう風潮が入り込んできています。私の青山学院大学の場合もそうなんですけれども。

私は最後の2年間は、青山学院大学の経営学部のチャプレンをいたしました。その中で、少しずつ考えさせられました。戦後、エッケルさんというドイツ人の宣教師がはじめたアドバイザーグループシステムというのがあります。それは、単位とかレポートとかそういうことは関係なく、まったく個人的にある先生と出会って、その先生の持っているものをわかちあう。一緒に旅行するとか、あるいは読書会を一緒にやるとか、そういうグループが一時はずいぶん盛んで、ある先生などは200人も学生がアドバイザーグループに集まってくるようなことがありました。ところが、いまはアドバイザーグループなんて持つ人は、大学の教員で1割に満たない。そういうことをする教員は、変わりものだと思われている。

青学に若い優秀な先生がまず入ってきますね。学生の勉強なんて見ない。わずらわしい委員とか絶対に引き受けない。ムシムシと論文を書いてですね。「青山学院なんて3流校だ。これからもっといいところへ行くんだ」と。腰掛けのための数年間ですよ。建学の精神、「キリスト教主義とはなんぞや」というふうなことが自分の教員生活の中の原則的な事柄として受けとめられるなんてことは、まずないということです。

それでも、私は最後の最後までアドバイザーグループを続けまして、それは、いまでもとっても大事な遺産として持っています。実は先々週の土曜日に、アドバイザーグループのOB・OGたちが20人から集まってまいりました。実は、大学3年までいて神学科やめて、牧師にならないで盲導犬の育成をしている男がいるんです。「盲導犬クイール」って、映画になりましたね。あのクイールを育てた男なんですけれども、多和田悟というんです。彼は本当にすばらしい男で、なまじ神学科を卒業して牧師になったら、あんないい仕事をしなかっただろうなぁって思うんです。オーストラリアまで行って、盲導犬の訓練のインターナショナルのライセンスを獲得して、いま日本では一番の盲導犬の育成者だと思います。

彼の現場に20人のOB・OGが全部集まりまして、彼の苦労話を聞いたり、盲導犬の役割、特に視覚障碍者の方々がどのように盲導犬を必要としているか学ぶ。そういうところでいろんな出会いがありましてね。ほんとうにOB・OGが集まってくるっていうのは、私にとっては貴い遺産だと思う。そういう中で繰り返し申しあげるのは、やっぱり人権の問題なんです。

在日コリアンとの出会いの中で、見てしまったこと、聞いてしまったことについては、責任が生ずるわけです。李仁夏牧師の在日大韓川崎教会と合同の聖餐式礼拝をはじめた時に、ある年の韓国教会の方でやった聖餐式、そのあと、いつもお茶の会があってお互いにコーヒー・紅茶を飲みケーキを食べながら、いろいろと冗談を言って、なごやかな雰囲気。その時に、一人の青年が立ちあがりまして、「私の兄と母親はとても熱心に教会生活をしているけれども、私はめったに教会に来ない。今日は教会に来たのは、日本人がたくさん来るっていうので来たんだ。日本人に聞きたいことがある。なんで日本人は、朝鮮人と見ると犯罪人扱いするんですか?」。この一言でもってなごやかにさんざめく会話の場所が、ピシャーッと凍りついたようになりました。韓国教会の側も日本人の側もシーンとしちゃったんです。

彼が桜本小学校の5年生の時に、クラスで給食費がなくなった事件があった。そしたら、受け持ちの先生が彼を残した。『お前がやったんだろう』『とんでもない。僕はまったく知らないことです』」。いくら追及してもやっていないと答えたのでとうとう職員室につれて行かれて立たされた。「だいたいこういうことをやるのは朝鮮人なんだよ」って担任の先生に言われた。彼は夕方まで立たされたまんま。で、帰された。もう、涙ながらに薄暗くなった運動場を帰りながら、「もう金輪際、学校なんか来るもんか」と言って、実際彼はそれ以来小学校には行ってないんです。そして、ぐれました。

「どうしてもわからない。なぜ日本人は、朝鮮人と見ると犯罪人扱いするんですか?」。そうすると、兄がガチャーンと立ちあがって「なにを言うんだ!日本人のお客が来ている時に、なに失礼なことを言うんだ!ぐれたお前がいけないんだ!お前がちゃんと日本人に恥ずかしくないように、勉強して、仕事をちゃんとしてれば、なんてことないんだ!」って言って、日本人の手前、弟をたしなめたんですね。彼は苦笑いをしながら、「そうだよなぁ。兄貴はいつも優等生だったから」と言って、座ったんです。それを潮に、その会は解散。しかし、私としては、弟のその言葉が胸に突き刺さった。「なぜ日本人は、朝鮮人というと犯罪者扱いするんだ」。それは、私も小学校の時に経験があるんです。小学校の5年生頃から朝鮮半島からの子どもたちが7、8人から10人、クラスに入ってきました。そういう中で無実の罪をきせられイジメと差別のために痛めつけられた子どもたちを見てるんです。そういうことを思い出しながら、ほんとうに胸が痛んだ。

そして一年が経過して、次の年、やはり10月の第1日曜日に合同礼拝をいたしました。今度は日本人の私の教会。聖餐式が終わったあと、ふたりのICUの学生が立ちあがって問題提起したんです。一人は韓国人の学生、一人は日本人の学生。「李仁夏先生、関田先生、質問があります。いま、ひとつキリストの体、ひとつキリストの杯ってわかちあったけれども、このふたつの教会は、桜本、大島、池上、この近辺で起こっている学校における差別、住宅入居差別、就職差別、結婚における差別、そうしたことについて、どういう意識を持ってこの聖餐式を行っているのですか?」これまたシーンと凍りついたようになった。そして、次々と語られる民族差別の現実。

李仁夏先生も、その当時いまのような意識はまだお持ちでなかったと思うんです。その学生たちは、仁夏先生の教会員でもある。親しい友人でもある。その仁夏先生、そして私に鋭く攻撃が来たわけです。激論が交わされまして、最後の最後に、仁夏先生が「よくわかった。ふたつの教会は、今後この地域において、ほんとうに民族差別を教会の宣教の課題としてしっかり受けとめるから、今日はこれで終わりましょう」って言われた。

自分の現場で、そういう経過をたどる中で、私は教会で伝道するということと、民族差別と闘う、人権を守るために闘うということがひとつだということを、かかわりを通して知らされてきたわけです。

そしていつの間にか、私にそういう資格があるとは思いませんけれどもこの人権教育研究協議会の会長かなんかさせられてしまいました。とにかく、このセミナーの中で、繰り返し確認しなきゃならないことは、ボンヘッファーの言葉で申しますならば「祈ること、民衆の間に正義を行うこと。」。ボンヘッファーの獄中書簡の一節であります。これこそが、今日のキリスト教の集約的なテーマです。

このセミナーにかかわって、もう十数年になります。20世紀の悲惨な戦争の世紀を終わって、新しい世紀こそは、ほんとうに平和に、ともに生きる世紀になってほしいという願いでいたんですけれども、あの、9・11の事件が起こってしまいました。そして報復戦争という形で、アフガニスタンからイラクへとブッシュさんがドンドンと戦火を進めた。報復戦争っていうことで問題の解決ができるわけがない。

梶原寿先生が翻訳されたキング先生の『汝の敵を愛せよ』という説教集がある。その中で、忘れられない言葉があるんです。「黒人の兄弟姉妹たちよ。私たちの目的は、白人に勝つことじゃないんだよ。そうではなくて、白人の中にある、間違った敵意をなくすことにあるんだ。しかしその敵意は、敵意をもってしてはなくならないんだ。敵意に対して敵意をもってするならば、報復の悪循環が続くばかりだ。だから、敵意をなくすためには、愛しかないのだ。昔、イエス様が『汝の敵を愛せよ』と言われた。私はそれを、個人的な人間関係の中でだけ、と思っていたけれども、実はそうではない。まさに、民族間の対立、国家の対立、階級の対立、文化の対立。対立の中でこそ、『汝の敵を愛せよ』という、この言葉が、最も具体的に現実的に事柄を解決する道なんだ。戦いをなくす道は、まさに敵意ではなくて、愛なんだ。愛によってこそ、敵意は乗り越えられていく。そして、だからこそ黒人の兄弟姉妹、白人の兄弟姉妹を愛そうではないか。彼らが救われなければ、我々も救われない。彼らの運命と我々の運命は、固く結びついている。だから、黒人たちよ、白人たちを愛そうではないか」と、キング牧師がそういうアピールをしている。

私が最初アメリカに行ったのは1961年でした。公民権運動が南部に広がっている頃でした。私は最初、シカゴのマコーミックっていう神学校に行った時です。学生食堂で食事が終わったあと、黒人の学生と白人の学生が激しい議論、ディスカッションをやっているわけですね。その中で、白人の青年が「なんで君たちは法廷でやるべきことを、道路でやるんだ。法廷でやればいいじゃないか。道路でやるから警察犬にかみつかれたり、消防の水でぶっ飛ばされたりするんじゃないか。」と聞いているんですね。ドナルドっていう黒人の学生が「君たち知らないんだ。南部の法廷は全部白人の法体系で占められている。だから、法廷では必ず黒人の正義の訴えが通らないんだ。だから道路でやるしかない」白人の青年が「かみつかれたり、水で吹っ飛ばされたり、傷つくじゃないか」と返す。その時にドナルドが言ったことが忘れられない。「アメリカがアメリカになるためには、誰かが犠牲にならなきゃならないんだ。それが黒人のスピリットだ。」そう言った。その言葉を典型的に生きて死んだのが、マルチン・ルーサー・キングではなかったでしょうか。

その頃アメリカのウールワースっていうチェーンストアが黒人を入れなかった。ですから、30人ぐらいの黒人たちが列をなして道路に座り込んで、讃美歌を歌いながら、祈ってるんですよね。「ウールワースが我々に対してもっと門戸を開いてくれるように」。そういうささやかなデモをやっている。それが61年でした。でもそのあと、30年経って、もういっぺんアメリカに行き、同じウールワースの店に行った。店長が黒人なんです。それだけ大きな社会的な歴史的な変革が、しかも「非暴力」という原則でもって、「汝の敵を愛せよ」っていうスピリットでもって獲得されたんですよ。なぜブッシュ大統領は、自国の貴い変革の歴史に学ぼうとしないのか。それが私の言いたいことなんです。そして、今度は火花がイスラエルとレバノンに飛んでしまいました。どこまで広がっていくんだろう。

こういう時、私たち、イエス・キリストの教えに従って教育を行うっていうことは、どういうことなのだろうか。「力」がドンドン支配して、正義は力ではなく、力は正義だなんて言われているようなこういう時代にあって、キリスト教学校で働くっていうことは、どういうことなんだろうか。

私は、先ほど青山学院の話をしました。青山学院の神学科は、さっき申しました浅野順一先生をはじめ、私の大先輩、恩師たちが一生懸命つくってくださった神学教育の機関でしたけれども、28年の歴史を終わって、青山学院理事会によって学園紛争のあおりの中で廃科されてきました。私どもの絶えざる願い、訴え、それらを無視して、統一原理系の学生たちがあらぬことをいろいろ理事長に吹き込んだこともあって、理事会としては神学科の廃科を決断したわけです。その時私は神学科の学科主任代行でしたので、ほんとうに沈没船の船長ですね。ですから廃科されたあと、教員たちはそれぞれバラバラに散っていきましたけれども、「私は沈没船の船長として400人からの神学科の卒業生に責任がある。どんなに干されてもどんなにつらいことがあっても、この学校をやめないぞ。」という選択、決断をしたんです。

それは、敗北の歴史でありました。1977年7月に廃科されたあと、97年、私が退官するまでの20年間は、ほんとうにつらい、しかしそのことから「キリスト教主義学校とは何か」ということをしみじみ教えられた期間でもありました。

理事会の方では、「神学科の教員については昇任人事は考えない」というので私は助教授を26年間やった。それで、理事長が亡くなられて、はじめてまわりが騒ぎはじめて、やっと教授になったんですけれども、5年経ったらもう定年、ということなんです。でもその間、ほんとうにいい勉強をしました。キリスト教主義学校の中にも、権力が横行するんです。ですから、「キリスト教だからいい」というわけじゃないんですよ。「この時代にあってどういうキリスト教か」ということが問題なんです。

そういう中で、私が学びとってきたことは、「負けたものがいかに生きていくか」ということです。昨年から今年にかけてほんとうに悔しいことが続きました。この協議会にも直接関係のある青柳先生の最高裁の判決ですね。負けました。それから昨年参加してくださった東京都の看護師鄭香均(チョンヒャンギュン)さんの最高裁の裁判も、敗訴しました。私の親しい友人であった神奈川教区の依田駿作という牧師さんの大嘗祭の問題がからんでくる「バンザイ訴訟」も最高裁で敗訴しました。

負け続けていくんですよ。負け続けていく。ほんとうに、「敗者として生きる根拠はなんなんだろうか」ということを思わざるをえない。詩篇の37編の7節にこういう言葉があるんですね。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ。しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。貧しい人は地を継ぎ豊かな平和に自らをゆだねるであろう」

この詩人は、おそらくイスラエルのバビロニア捕囚というマイナスの歴史を生きていた人じゃないかと思いますね。その中で同じ民族間でも抗争が起こる。悪しき権力が支配を及ぼす。しかし、神様のまことの裁判、神の法廷がある。「貧しい人は地を継ぎ豊かな平和に自らをゆだねるであろう」。

最高裁の出した判決が、人生の真理ではないということです。それは、歴史の一コマにすぎない。ほんとうの裁きは、神の法廷においてなされる。私どもは、そのことを希望として「沈黙して主を待ち焦がれる」。ここに来ざるをえないのではないか。さらに言うならば、私たちは、最高裁の判決を受けたからといって、「なにもかも終わりだ。あー、やーめたっと」と言うんじゃなくて、それはひとつの歴史的な発言である。本来的な発言は別にある。神の法廷が進められているということなんです。

だからいつか私、3つのことを申しました。我々の、この人権を守るための闘い、平和を求めるための運動の土俵を割らないようにしよう。これがひとつ。どんなことがあっても土俵を割らない。それからもうひとつは、対話をやめない。断られても無視されても対話を続ける。聖書の中のイエス様のたとえ話にもありますよね。「聞きたくなくても、あんまりうるさいから、しかたなしにいうことをきいてくれる」なんてのがね。最後に、希望を捨てない。どんなことがあっても希望を捨てない。ということだと思います。

敗北の歴史を生きている者にとって、大きななぐさめは、友人の連帯なんです。私の場合でも、青山の神学科がなくなったという、いわば敗北の歴史を営みながら、その中で井上良雄先生、菊池吉弥先生、あるいは大島孝一先生とか、そういう方々のなぐさめの言葉、励ましの言葉がほんとうに大きな力になりましたですね。ですから、青柳さんのことについても、鄭香均さんのことについても、この協議会としてほんとうに結束して連帯のきずなをむすんでいく。あの方々がこれからどう生きていくのか。何はともあれ、私たちは連帯の中で支えあって真理を確認する。最高裁の判決を確認するんじゃない。神の法廷の結論を確認するべく。そのためには希望を持たなきゃいけないですよ。来るべき者を待たなきゃならないわけですよ。だからこそ、「希望を持って生きる」っていう、このテーマを、口先だけじゃなくてこれからますます進めていかなくてはいけないと私は思います。

キング牧師が「I have a dream」と演説したのち、「夢見る者を殺してやろう」っていう、今日の梶原先生のお話にあったような迫害が来るかもしれません。小泉首相の話も出ましたが、あの人が「靖国参拝は、私の心の問題であります。適切に処理いたします」と言うたびに私は「この人は歴史理解が、歴史観がないなぁ」と思うんです。戦争責任の最高責任者の天皇でさえもが「靖国神社の参拝はイヤだ」と言っていたことが明らかになったわけでしょう。それを小泉さんはどういう思いで靖国神社を参拝しているのか。

靖国神社というのは、日本の軍国主義のイデオロギーの拠点だったんですから美化するべきではないんです。「彼らもまた戦争犠牲者だ」「彼らの犠牲を尊ぶ」といいますけれども、「天皇を中心とする神の国」と言われているような日本国のための犠牲じゃない。そうでなくて、人類の平和のための犠牲者が日本からも300万出た。だからこそ、平和のために憲法9条を守り続け、かつまた、彼らは世界の全人類の平和のための人柱だったと思うことによってこそ、彼らは納得できるんだろうと思うんです。

私の尊敬していました関西学院の中学校の先輩が、中国で戦病死したっていうことを戦後聞いて、ほんとうに悲しい思いになりました。予科練から帰ってきて、戦後生きる目的を失って自殺した友人もいるんです。そういう親しい方々が死んでしまった。私は生き残っている。「生き残った」ということに私はいつも負い目を感じています。

私は自分の5人の子どもを、一人一人、小学校6年生になったら、必ず広島に8月6日に、式典につれて行ったんです。そして、公園をずっとまわって「見てごらん。朝鮮人の犠牲者の碑だよ。これは平和公園の外に建てられているんだよ。死んでからでも差別はあるんだよ」ということを言ってきましてね。そういうふうにして歴史の伝承をしてきたわけです。私たちは教員です。あらゆる機会を利用して、平和のシンボルを経験させていかなくては。そして、心から心へとつながっていく平和の伝承をしっかりしたものにしていきたい。

今日読んでいただいた「フィリピ人への手紙」っていうのは、使徒パウロの最後の手紙で、遺言のようなものなんです。主題は「喜び」なんです。「喜びの手紙」ということで、いつも読まれていきます。しかし彼は獄中に閉じこめられているんです。自由に伝道できない。まさに彼こそが敗北の歴史を生きているわけです。ところが、負の歴史を生きている獄中から、「喜びなさい。あなた方がはじめたことは、『キリストの日』までに必ず神様が成就して下さる。キリストに向かっていこうじゃないか」。希望にあふれる手紙が獄中から書かれているということに注目していただきたい。

梶原先生の恩師でもある鈴木正久という、日本基督教団の戦争責任告白をはじめて公にした牧師が、亡くなる前に病院で残された遺言のテープがあるんです。そのテープの題名は「『キリストの日』に向かって」。ピリピのこの箇所からとられているんです。

だから、負の歴史を、敗北の歴史を生きる時にこそ、希望の味わいがありありとわかってくるんです。平穏無事の時にはほんとうの希望というのはわからない。どん底に追いつめられてこそ、希望の味わいというのがありありとわかってくるんですよ。聖書の希望というのは、いつも「にもかかわらず望む」というものでした。だからこそ、負の歴史の中に生きる私たちの希望が語られなければならない。希望の歌が歌われなければならない。そう思います。