聖書研究

聖書研究

 関田寛雄

     (日本基督教団神奈川教区巡回牧師、全国キリスト教学校人権教育研究協議会会長)

 テーマ  ~アモス書五章に学ぶ~

      「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように」

                                                         -預言者アモスにおける宗教と倫理-   

       旧約聖書1434ページ アモス書5章1節~27節

 

1,なぜ、今アモスなのか

まず、今なぜアモスなのかということをお話しします。

戦争の悲惨な20世紀を送って、21世紀には何とか平和な時代を迎えたいと思っておりましたが、私たちの願いに反して2001年の9.11事件は起こりました。それ以降の世界は非常に深刻な状況に立ち至っていると思います。アメリカの世界戦略がどんどんひろがって、その一環として、例のテロ事件に対する報復という、大義名分のない戦争がアフガンとイラクに進められていきました。何度もお話しすることですが、なぜテロが発生するかというとき、力においてテロを押さえ込むという発想しかしない大国の傲慢を思わざるを得ない。テロの運動の奥には必ず追いつめられた人間の叫び、はっきりした思想があるわけです。それに耳を傾けるということがテロに対しての最も大事な対応だろうと思うが、力の対応ばかりで全くそういう関わりがない。

犬養道子の『人間の大地』に示されたように、富める4分の1の国々が地球上の4分の3の食料を独占している。貧しい4分の3の国々が4分の1の食料に甘んじなければならない。この不公正を正さなければ世界の平和は来ないと犬養さんは30年前におっしゃっています。それに対してG7とかG8とか言われている先進国は抜本的な解決のために何をしてきたのか、貧しさに苦しむ民衆の声に本当に耳を傾けたことがあるのだろうか、国連は21世紀の冒頭に起こった事件に対してそのことを問題にしたことがあるのだろうか。

日本という国もまた、小泉さんはじめとして靖国参拝を続けざまにやっておりますし、アメリカに対する追従の姿勢を変えない。そのために曲がりなりにも築いてきた日中・日韓・日朝の関係がずたずたに崩れてしまった。そのあとを受け継いだ安倍さんもそれに輪をかける形で教育基本法改悪に踏み切り、防衛庁も防衛省に昇格させたし、国会で「A級戦犯は国内法的には無罪だ」と明言しているわけですね。そういう政府の発想の中で日本に遣わされているキリスト教会およびキリスト教学校としてどういうスタンスを取るべきなのか、いま本当に問題であります。

格差の問題もどんどん広がる一方であるというこのときに、聖書の言葉に聴くべきことは何だろうか、それは正義の預言者アモスの声ではないだろうか、ということでアモス書を取り上げたわけです。とりわけ、5章の21節以下を中心にお話をしたいと思います。

2,アモス書の背景

簡単に時代背景を申しますとアモスは紀元前8世紀ヤロブアム2世という王様のもとで活躍したのですが、ある聖書学者によりますと、アマツアという体制派の祭司に迫害されて預言活動は3ヶ月で終わったとか、長くても3年であったと、短い活動しかできませんでした。このヤロブアム2世の時代の40年、紀元前786年から746年と言われていますが、書物によりますとソロモン時代に匹敵するような豊かな繁栄が与えられたし領土も拡大を得たということで、第2のイスラエルの繁栄の時代です。イスラエル当局はそれをヤハウエの神の恵みとして盛んな祭りを行ったのです。しかし宗教行事の質たるや惨憺たる堕落の様相であったことは明らかです。テキストの5章の10節以下をみてみますと、「彼らは町の門で訴えを公平に扱うものを憎み、真実を語るものを嫌う(「町の門」というのは裁判所を意味します。裁判が実に混乱してしまっているのです。)そして彼らは弱いものを踏みつけ、彼から穀物の貢納を取り立てるゆえ、切石の家をたてても(切石の家というのは土の家ではなく朽ち果てない贅沢な家の意味です)そこに住むことはできない、見事なぶどう畑を作っても、その酒を飲むことはできない。お前たちの咎がどれだけ多いか、その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている。それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。 善を求めよ。悪を求めるな。お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように、万軍の神なる主は、お前たちと共にいてくださるであろう。悪を憎み、善を愛せよ。また、町の門で正義を貫け。あるいは、万軍の神なる主が、ヨセフの残りの者を憐れんでくださることもあろう。」ヨセフの残りの者というのはイスラエル民族のことですが、ともかく、原理の回復、善を求めよ、悪を求めるな、というのがヤロブアム政権に対してアモスの一番言いたかったことです。けれども語っても王は聴いてくれない、それがアモスの時代背景です。

アモスはイスラエルのこの豊かな状況は飢饉であるという。神の言葉を聞くことの飢饉、豊かさの中にあってそれがまさに飢饉だと断言する。「見よ、その日が来れば、と主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に乾くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」(8章11節)そういうアモスの洞察の深さ。おまけに商人たち、経済的に豊かな指導者がおごり高ぶっているところがでてきます。「お前たちは言う。新月祭はいつ終わるのか。穀物を売りたいものだ、安息日はいつおわるのか。麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くして、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足分の値段で買い取ろう。また、くず麦を売ろう(8章4節)」こういうおごり高ぶった商人たちによって、「祭りは早く終わらないか、いいかげんに商売にかからしてもらいたい、宗教なんてどうでもいい、とにかく儲けようじゃないか」、そういうことがあからさまにいわれている、これがアモス書の時代の背景です。

3,アモスの人と思想

では、アモスはどういう人物か。どういう思想を持っていたか。かれはテコアの牧者のひとりであって、テコアというのは南ユダ王国の村です。そして北イスラエル王国で預言活動をしている。大事なことは冒頭にあるように、アモスは、自分を羊飼いの一人である。と位置づけております。羊飼いというのはイスラエル社会においては最低の被差別階級の職業であったわけです。羊を追って草原を動くわけですから定住することができない。要するに渡り者、「イブリー」と申します。(「イブリー」からヘブライ族が始まったと言われています。)そのイブリー、住所不定で安心できないと市民から差別をされた、その差別された彼が神から選ばれてイスラエルの預言者として立てられたということにアモス書の深い意味があると思います。アモスはずけずけと預言の言葉を王にぶつけるものですから、祭司のアマツヤが王に讒言して、我々は耐えることができない、何とか追放しようではないかという。「ベテルの祭司アマツヤはイスラエルの王ヤロブアムに人を遣わしていった。『イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼の全ての言葉に耐えられません。』… 中略 …アマツヤはアモスにこういった。『先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だがベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。』… 後略 …(7章10節)」その最後は書かれていないけれども追放されたと思われます。

それでは彼はどういう思想を持っていたか。アモス書の特徴として、諸国民の裁きをまずはじめるわけです。1章には七つの国に対する裁きの言葉が書かれております。たとえば「ダマスコの三つの罪、四つの罪ゆえにわたしは決して赦さない」、こういう主の言葉が繰り返されます。そして最後に2章6節に「イスラエルの三つの罪、四つの罪ゆえにわたしは決して赦さない、彼らが正しいものを金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い、私の聖なる名を汚している。祭壇のあるところではどこでも、その傍らに質にとった衣を広げ、科料として取り立てたぶどう酒を神殿の中で飲んでいる 」政治も宗教もむちゃくちゃに混乱し堕落しているというわけですが、諸国民に対する裁きの中で自分の遣わされているイスラエルを最も厳しく裁く。もちろん生まれ故郷のユダ王国に対する裁きのことばもあるのですが、「地上の全部族からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ私はおまえたちをすべての罪により罰する」(3章2節)とあるように、イスラエルを最も愛し選んだからこそ最も厳しく罰する。ここに旧約聖書の中で唯一神の信仰がはじめて表れたと思います。

モーセの十戒の「汝は私の他に何者をも神としてはならない」は唯一神信仰ではありません。他の神もあることを予想して、イスラエルはヤハウエを信じ続けなさい、といっているわけです。しかしアモス書においては諸国の政治と宗教を裁く、しかもイスラエルを選んだ神がイスラエルを一番裁かれるという、いままでにない新しい唯一神の信仰が生まれてきていると思うのです。

多くの国で唯一神の信仰があり、日本でもそうです。台湾にしても、朝鮮にしても植民地を押さえると、すぐそこに神道を持ち込んで天皇の絶対性を強調します。台湾神宮、朝鮮神宮をつくって、神道をおしつけることによって唯一神、天照大神を強調する。支配者が唯一神信仰をおしつけることによって権力をおよぼす。ところがアモスの言っていることは、神の選ばれた民を神が最も厳しく裁く–これは本当の意味での、それまでにない普遍性をもった唯一神の信仰である。しかもそれは徹頭徹尾、倫理的な唯一神信仰である。神が、選んだ民をも含めて倫理的にさばくという唯一神信仰、これがアモスに表れた大事な思想であると思います。そして、実はそのことのゆえに、今日の世界のさまざまな対立–宗教間対立、文化的な対立、政治的な対立、そういったものを乗り越えていく新しい原理として、アモスの言っている唯一神信仰が新しく認められていいのではないかと思います。

4,ヤハウエの神

実は「ヤハウエの神」は、実体的にはユダヤ教の神でもありますし、イスラムの神でもありますし、キリスト教の神でもあります。「ヤハウエ」という言葉の意味については、最近研究が進んでおりまして、友人の優れた旧約学者である木田献一の見解によると、出エジプトの3章でモーセに対する自己顕現のときにその意味を「ありてあるもの」とモーセに教えられる。しかし更につっこんでみると「ヤハウエ」とは「あるものをしてあらしめるもの」だと木田献一さんは言っています。ありとあらゆる存在をあらしめるために「有」に対する「無」として、神はご自分を「無」にしている。「有」の対概念は「無」です。「有を有たらしめる」ために「無は無であり続ける」。その説に基づいて、やはり友人の組織神学で業績を上げております小田垣雅也という学者が、「ヤハウエ」とは「無」しかも「絶対無」と表現するのがふさわしいと言っている。神は「無」であり続けている。昨日の本田先生のお話に「アガペー」ということが出てきましたが、まさにこの「アガペー」は他者を他者として生かしめるために自らは「無」になっていくということです。そこに「アガペー」の本質があるとすれば、「ヤハウエ」の本質とは「アガペーである」と同時に別の表現をすれば「一切の有を有たらしめるために無であり続ける神」である。ここに新しい人類の統合のシンボルがあっていいんじゃないかとさえ思うのであります。そのように考えるとイエスキリストの十字架の事件は、まさに神の自己無化である、といえると思います。神ご自身が十字架において自らを「無」とされた、そしてすべてのものに「生きよ」とおっしゃっている、そういう意味が十字架にあるのではないかと思います。

それぞれの文化・民族においてさまざまな宗教があるわけですが、一番の問題は自分の宗教をドグマティックに絶対化している。これが宗教の破綻であろうと思います。人類が新しい統合のシンボルを求めていくとすれば、まず原理主義から脱却しなければならない。キリスト教の原理主義も、イスラムの原理主義も悪魔化しています。およそ宗教というものが成熟していくならば、自分自身の特殊な信仰対象に真実に従うということを一貫しながら同時に他の宗教形態に対する寛容性をもつはずです。それは決して他の宗教に対する妥協ではありません。むしろ自分自身が信じている宗教の普遍性に目覚めればこそ、他の宗教に対して開かれていくという、そこにヤハウエという神の持つ非常に大きな意味があるのだと思います。わたしたちはイエスキリストに対する信仰を毫もゆるがせにすることはできません。しかし同時に本当にまじめに人権と、平和と、共に生きる社会を求めている諸宗教に対して、心を開き協力の手をさし伸ばすこと、そして自分自身の信じる信仰の一貫性を貫くと同時に他の宗教に寛容であること、それが自分自身の信仰の徹底のゆえにうまれてくる普遍性だと思います。そういうものを持たせてくれるのが、実は「ヤハウエ」というシンボルで言われていることではないか。

宗教は成熟しなければなりません。成熟した信仰は、自分の信仰の真実を貫くと同時に、真実人間を愛し、平和を愛する他の宗教に対して心から協力を申し出る、そういうスタンスが持てるのです。そういうことは既に行われています。たとえば下村寅太郎先生という教育大の先生、西田哲学の門下で仏教学者でありますが「アシジの聖フランチェスコ」という本を書いています。これがカトリック新聞で非常に高く評価されました。プロテスタントの牧師で佐古純一郎という人が「親鸞-その宗教的実存」という本を書いてそれが「大法輪」という仏教系の雑誌で非常に評価されている。つまり、自分の信仰が真実に深まるならば必ずや他の宗教の真理に理解が及ぶということなんです。そこに協力の場が開かれている。その意味で、あるものをあらしめる、「ヤハウエ」というシンボルに生きる宗教は、人類の新しい統合の原理を明らかにしている。それに参与を求めている。お互いに成熟した宗教になろうじゃないか、ブッシュを代表とするキリスト教の原理主義者よ、イスラムの原理主義者よ、もっと成熟して信仰者になっていこうと呼びかけていくということが今日の宗教者の課題ではなかろうかと思います。アモス書5章6節に、「主を(ヤハウエを)求めよ、そして生きよ」といわれています。4節にも、「わたしを(ヤハウエを)求めよ、そして生きよ。」と。そこにこそ人類の生きる道が開かれているのではないだろうか。主を求めよ、そして生きよ、ということであります。アモスから学ぶところの、「ヤハウエに従い、ヤハウエを信じ、ヤハウエによって生きる」ということが民族の神を超えていく道であり、それが本当に普遍的な人類統合の方向性をしめしてくれるのではないかと思います。

5,宗教と倫理の不可分性

今ひとつアモスにとって大事なことは宗教と倫理というものの不可分性です。これは聖書全体を貫くユダヤ・キリスト教の信仰の遺産だと思います。聖書において宗教は倫理と不可分である。倫理は宗教からこそ演繹されてくるということです。今回のパンフレットの朝の祈りのページ(45ページ)をみるとヘンリ・ナウエンのこういう言葉がありました。

「真の革命家は誰でも、心底、神秘家であるよう挑まれ、神秘家の道を歩む人は人間社会の虚偽を暴露するよう呼ばれています。神秘主義と革命は決定的変革をもたらそうとする努力の二つの面なのです。神秘家は誰でも必然的に社会批判をするようになるのです。というのは観想の中で、病める社会の根っこを見出すからです。同じように革命家は、誰でも自分の人間的限界を直視しないではいられません。なぜなら、新しい世界を求める闘いのまっただ中で、人間の間違った野心や本能的恐れに直面して、それと闘っているのだということを発見します。神秘家も革命家も同じように安全で保護された環境を求める自己中心的な望みから解き放たれて、自分と自分のまわりの世界の惨めな状態に恐れず直面しなければなりません。私たち人間の一人となったイエスは、人間の心と人間の社会を変えるということは一つのことであり、十字架の二つの梁のように密接な関係があるということを明白にしたのです。イエスはこの核時代に生きる人にとっても依然、自由と解放への道なのです。」

神秘主義・神秘家という表現は神と人間とが一体となってしまうというのではなく、神と人間との契約関係、あくまでも契約において結ばれる「義」という状況ですが、神と人間とが美しい契約の緊張関係の中で生き生きと生きている、それがここで神秘家と呼ばれている。つまり神と交わるものは革命を志向せざるを得ない、ということなのです。革命というとすぐに暴力的なものと思われますが、私は本当に今、この時代に革命が必要とされていると思います。革命というのは暴力で政権を奪取するのではなく、モラルの回復なのです。その意味で神秘家と革命家が一つになる。

私は昨年講演に行った広島女学院で高校生に「良き変化のためのエージェント」になりなさいと、申し上げたのです。広島女学院では「神と共に働くもの」というのが校是なんですね。「神と共に働く」とはどういうことか。「良き変化」のためにひとりひとりが遣わされた場所で、モラルの回復を求めてエージェントとして働くんだと。まさに、アモス5章21節で述べている、宗教と倫理の一致「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとい、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても、穀物の献げ物をささげても、わたしは受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。」ここでは、宗教の堕落を徹底的に批判しています。ヤハウエの神は祭りを憎むのだ、しりぞけていらっしゃる、真の献げ物とは、正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせること、これこそヤハウエに対する真の献げ物だということです。詩篇51編にダビデが歌っております。「汝は供え物を喜び給はず。汝の求める供え物は砕けたる魂なり、汝は砕けたる悔いし心を軽しめ給うまじ」ヤハウエの求める献げ物は悔いたる、砕けたる魂である。それは明らかにヤハウエとの契約によってモラルを回復していく生き方です。そう考えるとまさに今日、宗教と倫理の不可分性が確認されなければならない。

それぞれの属している教会の流れの中で、日本の国の政治の流れに沿うかのような右傾化がすすんでいるように思います。きちんとした聖餐式を守らないと「処置します」というような形式主義にまたもや陥っていく流れが生まれています。神の求めたもう供え物は何なのか、教憲教規に即した聖餐式をやっていればそれでよいのか、そうではなくていまこそ正義を洪水のように恵みの業を大河のようにつきることなく流れさせようということこそが、キリスト教会の神にささげるもっとも良き献げものではないのか、そういう意味でも宗教と倫理の不可分性が徹底されなければならない、とアモスに深く教わるわけであります。

6,正義と恵みの業

そして、最後に今ひとつ大事なことは、5章24節「正義を洪水のように、恵みの業を大河のようにつきることながれさせよ、」ここに「正義」と「恵みの業」が併記されています。このことの意味はとても大事だと思います。元の言葉では「正義」とは「ミシュパート」律法に即して正しい営みをすることで、もうひとつの「恵みのわざ」とはもとは「ツェダカー」ということばなんです。これは「義」、つまり神と人間のしっかりと生き生きと結ばれている契約に基づいて人間同士のまじわりもきちんと生き生きと行われる、憎しみとか抑圧ではなく神との関係に基づいて生き生きと生命的に維持されている、それが「ツェダカー」の意味です。新共同訳では恵みの業と訳しているのは意味深いことだと思う。正義というのは正義だけで突っ走ることがある。正義は突きつけられると反論できない。なにしろ正論ですから、反論できないけれどもすごい力でもって強調されると、もっともなんだけれども今ひとつ腑に落ちないことが心に残るということがあるのではないか。人間関係でそういうことがあるのではないか。正論なんだけれども、「うーん」とある感情的なものが残ることがあるのではないか正義が正義として本当に実るためには恵みの業が伴わなければならない。言葉を換えて言うと「愛」とか「共に生きて行こう」、昨晩の本田先生の言葉を使うなら「お大切に」という言葉。正義を強調すると同時に今ひとつの「お大切に」というモチーフがともなわないと正義は正義を裏切ってしまうんです。正論なんだけれど誰にも受け入れられない、ということになってしまう。

川崎の在日韓国朝鮮人のオモニたちが、学校でひどい民族差別が続発しているのにたまりかねて、李仁夏牧師が中心となって、川崎市の教育委員会と話し合いを持ちました。そこには学生たちも参加して非常に鋭い問題提起もする。最初は教育委員会の先生たちは「いや川崎市の学校には差別はありません。差別はしていません。日本人と同じようにしていますから」というけれども、オモニたちが「その日本人と同じようにやってるというのが差別になることがあるのがお気づきになりませんか」といわれても教育委員会の先生たちはわからないんです。「日本人と同じように」ということで家族の中でハルモニ、ハラボジが伝えてきた家庭の文化的遺産が否定されてしまうわけなのです。だから民族的なちがい・文化的なちがいを認め合いながら一緒に助け合っていくところに民主主義的な教育の業があるのではないだろうかというわけですよね。そういう正論を突きつけられていると教育委員会の先生たちは言葉がなくなって、だんだんうつむいてメモばっかりとっている。青年たちの糾弾は鋭いわけです。言葉も荒っぽくなる。先生たちはますます怖じ気づいて硬くなってしまう。そういう糾弾。あとで李仁夏先生は「糾弾の目的は理解を求めることである。理解が得られない糾弾はマイナスで逆効果だ。」とおっしゃった。糾弾のあり方を考え直そう、と言われました。しかし、オモニたちは知恵があるんですね。激しいやりとりの後、冷や汗かいている先生の手を取って、先生、焼き肉屋でちょっと一杯飲んでいってね、といってひっぱっていって、焼き肉屋で膝をすり寄せてビールをつぎながら「つらかったでしょう、ごめんなさい。」といいながら「うちの子どもはこんなことがあったのよ。ランドセルに給食のみそ汁をぶっこまれたのよ。」という話をする。そんな中で教育委員会の先生たちの心が本当に変えられていった。正義は正義だけでは実らないことがあるのです。正義が自らを裏切る、正義が不正になってしまうことがある。

正義が正義として実るためには恵みの業が伴わなければならないのです。恵みの業によってこそ正義は目的を全うする。正義の内容は共に生きる社会をつくることなのです。正義は誰かが支配者になるということではありません。正義の目的は共に生きる世界をつくることなんですよ。だからこそ正義が実るためには恵みの業が必要なのです、そこに預言者アモスの知恵がある。これは学ばなければならないと思います。

アモスという人は聖書の中で初めて生まれた「記述預言者」です。エリヤまでの預言者、ダビデにはナタン、アハブにはエリヤというふうに王権の暴発をチェックするために預言者はいた。(サムエル記にあるように預言者制度が作られたのは必要悪としての国家の暴発をチェックするためのものだった)エリヤまでの預言者は 王様が聞いてくれた。しかしその後、王権・国家権力がどんどん強くなってきます。預言者が言っても言っても聞いてくれない、そういう王に対してはどうすればいいか、書いて残すということしかなかった。とにかく書いて残すんだ、そこに記述預言者としての最初の人物が誕生した。アモスは3ヶ月したら殺される、しかしいいんだ、いつの日か王の側近がそれを見て「ああ間違っていた」と自覚して、ヤハウエの元にもどっていけば万々歳だ。自分の命が長くないとすれば、語っても語っても聞いてくれない王には書いて残すしかない。だから記述預言者の言葉は遺言なんです。そう受け止めてよいと思います。その最初の記述預言者がアモスです。抵抗の戦いの中で正義と平安と共に生きる世界を求めてどんなに努力をしたか、そういう彼の生き様、かつまた、彼の普遍的な神ヤハウエへの理解、それをわたしたちが今日受け継ぐことによって、教会においても学校においても、現場で勇気と確信を持って「あるものをあらしめるもの」という人類統合の原理を訴えていきたいと思います。