開会礼拝(本田哲郎 フランシスコ会神父)
「愛することよりも大切にすることを求めたい」
皆 さんこんばんは。学校という、恐らく教会よりも会社よりももっと大変な、ある意味戦場と同じくらいの大変さ、赤い血が流れるかどうかは別としてとにかく先 生方は血を流しつづけているんじゃないのかな、そんなところでよう辛抱してがんばって続けていらっしゃるなと、ほんとにそれに敬意を表したいと思います。 教会と違って学校は右の端から左の端までいるわけですよね。生徒たちよりその背景にいるもののほうが怖いですよね。ぬえのような存在だと思います。でもそ の中でよくめげずにがんばっていらっしゃる。プリントの後ろの参加理由を読ませていただき、大変なんだなと思いました。今日これから一時間ほど共有さして いただきたいと思います。
礼 拝の話ということでコリントの信徒への手紙を読んでいただきましたけどね、あの話すると思ったら大間違いですよ。私は愛こそキリスト教の真髄だということ をしっかりインプットされて、そのためにどれほど努力したか。クリスチャンとして64年間その方向でがんばってきたわけなんですが、そこに偽りあり、なん ですね。愛に一生懸命になればなるほど人権を危うくしてしまう、落とし穴があるのです。自分と同じように愛しなさいとか、敵を愛しなさいとか、互いに愛し 合いなさい、それらがものすごく大事だと、ここにこそほんとの生き方があると、だから一生懸命そこに向かって努力した訳なんですよ。だけどそれが空回 り……。時々、「あ、実践してるな」と自分でほくそ笑むときはたいてい痛みを知っている現場の人から見たら、「おい、偽善者」……、そういう話をさせても らいます。
私 は高校は聖パウロ学園、大学は上智でしたけど、キリスト教精神に根付いた教育です。そういう中で当然のことのように思いこまされてきたことが、たとえば 釜ヶ崎の現場では全く通用しない、あるいは本当の抜き差しならない問題にぶつかったときに、教わってきたことがさあっとはねかえされてしまったことがいく つかあるんです。ほんとに相手のことを理解しようと思ったら相手の立場に立つ努力をしよう、相手の立場に立って考えよう、先生方もおそらくそういう努力を 続けていらっしゃるんじゃないかと思いますが、また生徒たちにもそんなようなことを口走ってはいないですか。
釜ヶ 崎に最初来たときはカルチャーショックで、とにかくきちんと理解しなくちゃという思いで何をしたかというと、一生懸命日雇いの仕事に行った、そしてドヤに 泊まるようにして、そして食事も大衆食堂でみんなと一緒に、お風呂もできるだけ銭湯に行くようにして、2年くらいたって、みるからに日雇い労働者らしく見 えるようになってきた。横浜からやってきた高校時代の友達がふるさとの家の前で待ち合わせしてたんですけど、彼が歩いてきて、私の顔ちゃんと見てまた向こ うへ探しに行ってまた戻ってきたから、「おい中村」って言ったら、「全然わからなかった」っていうことがあって、私にとってはそれが誇りだったわけです。 やった、労働者と同じ立場に立ててるな、と。そうなってきたころ、一緒に現場で汗かいてやってる仲間との休憩時間の話などから、あの人たちの本当のさみし さをこれっぱかりもわかっていなかったと気づいた。姿形が似てきたところで私は労働者の仲間として分かり合えてるという思いがあったわけですね。だけど、 自分の九州の田舎の古い番地を空で暗記している、電話番号もこれこれだと、じゃ、時々は連絡とってんだ、っていったらね、本田さん、連絡なんか今更取れた もんじゃないんだよって、いわれて、「へぇぇっ……」ってなって。そのさみしさを、そのつらさを、姿が同じになってきたからって分かるもんじゃなかったん だ。一人一人みんな違うわけでしょ。相手の立場に立ったつもりになっちゃいけないんだな、と痛切に思わされたんです。相手が日雇い労働者だから、相手が野 宿してるおっちゃんだから、相手の立場に立てない、ということなのかというとそうではないんです。一学生としてボランティア活動で車いすを押させてもらっ たことがあって、先輩たちに目線のこと、腰を低くとか教えられて、何となく同等の目線でしゃべっているつもりについなってしまった。障害者の仲間たちって 言うのはボランティアに気を遣ってくれるし、そんなにズケズケとはなかなか言う勇気もない、そんななかで、こっちはこっちで同じ立場に立ったつもりでやっ ていく。だけど自分の持ち時間が終わったら、「じゃあ、また来週ね」って自分は走って帰る。けれども、彼らは自分の家まで玄関まで車いすで帰るしかない し、ほかのボランティアの人に頼んでおしえてもらうしかないし、家に帰っても壁伝いに自分の洗面所までいくとかね。
自 分の生活の場でも人の立場に立てたことなかった。同じ釜の飯を食って育った姉弟でもそうでした。中学卒業頃に結核になって高校にすんなり行けなくて3、4 年療養生活して高校は通信教育でいった姉が、五十いくつになって本当は自分はトラピストの修道院に入りたかったんだと本人の口から言われて、何十年もたっ てから姉の本当の気持ちに気づかされた、同じ釜の飯を食って育って生活していてわかっているつもりだったのにそうだった。先生方、同僚だからっていって、 本当に相手の立場に立ててますか?立ててないのに生徒には相手の立場に立って考えなさい、野宿者を襲撃なんかしたらだめだよ、襲撃される人の身になってご らんと簡単に言うけれども。私たち自身がもっと身近な人同士で、連れ合いとの間でも本当は人の立場に立てないんじゃない?ほんとうのところは。けれども相 手の立場に立って考えようというのがあまりにきれいだから、そして真実味があるから無批判にそれを当てはめようとしている。私は野宿者の問題が身近なので ついその方に話がいくけれども、先生方は生徒のこととか生活の場で勘案しながら聞いて欲しいと思います。
公 園で野宿している人に対する差別感、偏見がいつまでたってもなくならない、あの人たち要するに働きたくないんじゃない?社会の仕組みの中に一つの駒として はめられて生活するのがつらいから抜け出して自由にやってんじゃないの?こんな発想がしみこんでしまっている。子どもつれて歩いているお母さん、おばあ ちゃんが通り過ぎてからしばらくしてちゃんと勉強しないとあんな風になるよ、という教育をしてるじゃないですか。自分が勝手に相手の立場に立ったつもり で、「私がああいうことをやるとしたら今の社会の仕組みがうっとおしいからそこから抜け出してやるんだ」と自分はそう思うわけです。だからその人もそうだ とついつい思ってしまう。相手の立場に立てないのに立ったつもりにならないでほしい。どこかの市民講座に人権の話を頼まれていったとき、質問の時間に、ボ ランティアとか好きそうなおばちゃんがね、「そういうけれども私、関係を持とうと思っておにぎり作って家の近くの公園でいつもごろごろしているおっちゃん に持って行った。そしたら、そんなもん食えるかってつっけんどんにあしらわれた。なにか問題があるんですよ、あの人たちは」と言った。なまじ接点を持とう と努力した善意の人が、自分を相手の立場にすえてしまって、私だったら今食べたくなくても、ああ、ありがとうと受け取る、この人はそんなこともやらない、 横っちょにはワンカップの飲みかけがあった、ということまで言うでしょ。そうしてどんどん偏見が助長され差別が強くなっていくみたいです。そういう意味で まず人間関係で相手の立場には立てないんだってそこから出発することから始めてみませんか。それだったら自分の高みから見下すような関係しか持てないん じゃないのって先生方は思われるかもしれないけれど、英語で理解するとはアンダースタンドという。日本語だと同じ立場に立って、でしょ。でもこれは、ほん とに理解しようと思ったら「教えてください」という関係性しかあり得ない、そのことのヒントじゃないのかなと思います。相手より下に立つ、夫婦でも友達で も同僚でも生徒との関係でもアンダースタンド以外ないかもしれない。自分もかつて小学時代・中学時代・高校時代があった、そんなの何の足しにもならないで しょ、時代が違うから。だとしたら、今更生徒たちの立場に立てやしないよ。だけど変に若やいで生徒と同じ言葉を使い合うということで錯覚してしまうことも あるかもしれない……、それがこわい。相手よりも下に立つ。もう少し重みをつけていうと、「尊敬する」、平たくいうと「本音のところを分からないから教え てもらう」、という姿勢で関わるしかないんじゃないですか?相手に寄り添う努力は不可欠だけど同じところには立てない。それをわきまえて、最後のところは 「教えて」それしかない。釜ヶ崎の労働者に受け入れてもらえるようになったのも実はそうだった。お前えら、おれ、という感じでしゃべれるようになったら、 ついつい理解しあえている気になってしまうんですけど意外とそんなのはなんの足しにもなっていない。一緒に酒を飲んだら友達になれる、これも嘘みたいで す。釜の労働者でも酒が一滴も飲めない人も結構いるんです。あいつらみんな飲んべえだって思うかもしれないけどそうでもない。缶コーヒーしかだめな人もい る。
基 本的には相手の立場に立って考えようというのを一度ご破算にしてください。これはひとつめの皆さんへのチャレンジ。私が言っていることがまるまる正しいと いっているつもりはない。教育の現場はまた違うかもしれない。相手の立場に立とうと一所懸命努力して分かり合おうとすることは、無駄な努力、実りのない努 力かもしれませんよ。これをひとつおさえてほしいなと思います。
二 番目はスマップが一昨年の紅白のトリで歌った「世界で一つだけの花」のメインメッセージ、ナンバーワンにならなくていいんだよ、オンリーワンであることを 大事に受け止めよう、そういうメッセージでしょ。あの歌が最初に聞こえてきた頃、すごい福音的な歌だなあと、若者たちがこんなメッセージを発信してくれて いてうれしいなあ、と正直思った。だけどそれがだんだんだんだん、釜ケ崎の一人一人の労働者、河川敷で野宿している散髪の時だけ来る人とか、そういうのをみて いると、確かに釜ケ崎の一人一人も、たとえ野宿してても目立たないけど本当に小さいかもしれないけど花を咲かせている、スマップの歌のそれは納得です。だから オンリーワンであんたはそれでいいんだよっていう人が、きらびやかなかっこいいバラやボタンの花びらのようであったら、そんな人には言われたくないんだ。 違いを認め合おうっていうことで問題は何にも解決していない。忘れないでほしい。そういう人たちの存在はみとめない、っていうところから一歩進んで認め合 おうっていうのはものすごく大事、だけどそこで満足しないでって。小さくしか咲く力がないとか、小さくしか咲く環境にないとかそういう仲間たちが大勢いる わけでしょう。一個一個星のように見てごらんってそんな見方されて、それで社会の中でそれなりに位置づけを獲得できるの?相変わらず目立たないちっちゃい 花。
コ リントの信徒の手紙のなかにこういうのがあります。「人の体というものは一つであってもそこにはたくさんの部分があり、体にある全ての部分の数は多くても それで一つの体です。…目は手に向かって『おまえはいらない』とはいえず、頭は足にむかって『おまえはいらない』ということはできないのです。(コリント の信徒への手紙12章12節~21 節)…鼻があって目があって耳があって頭があって手があって足があって…それぞれ違いがあっていいんだよ。そういう聖書の朗読をされて、たいてい神父たち は「多様性の一致なんですよ」…とすぐそこへ持ってきてしまう。だけど釜ヶ崎から見てる限り、違いを認めあうってことは、あんたその公園で野宿してくれて いいよ、ってことです。そこに住民票を認めてあげるよという判決が大阪で出たけれども、高裁でまたもどりました。野宿の状態で住民票を認めてもらってそれ が正しい意味での共生ですか?もし公園でテントはって暮らすのが本人にとって正真正銘の自己実現のスタイルであれば構いません。そこに住民票認めてあげる のもいいと思うんですが、普通、1000人いたら999人がこんな生活抜け出したいと思っています。自己実現の姿でないのに、今の姿で認めてあげるから日本の社会でOKだよ、そんな風に持ってこられたらそれこそ差別そんなつらいことない。
コ リントの人の手紙にはつづきがあって、「それどころか体で『いちばん貧弱』とみなされている部分がだいじなのです。私たちは体の部分で『たいしたことな い』と思ってしまうところを何より尊重するようにします。それで私たちが『目ざわりだ』としていた部分がよりすぐれた調和をもたらすようになるわけです。 調和がとれている部分にはそうする必要はありません。神は『不足がちのところ』を何よりも尊重すべきべきものとして体を組み立てられました。」(コリント の信徒への手紙12章22節~24節)
不 足がちなところ…小さくしか咲けてない、目立たない花、その彼、彼女たちを何よりも何よりも尊重されるべきものとして、それができて初めて体に分裂がなく なり、各部分が互いに配慮し合うようになるのです。違いを認め合うところでたいていの場合終わっているんです。多様性を認めることが一致の原因であるかの ような錯覚を持ってしまう。多様性を認めるのは途中のステップなんです、認めた上で一番小さくしか花開くことのできない仲間たちこそ大きなバラの花を咲か せている仲間たちよりもっと重要な働きをしているんだ、思い切ってそこまでぐっと踏み込まない限り、いくら多様性を認め合っても何の問題の解決もしませ ん。分科会の中にもある「外国人との共生」とも関係があります。中途半端な日本の中で法律が何も保護しない状態で、「あ、いてもいいよ」って。在日の仲間 先輩たちに選挙権も与えないで、「一緒だよ」何が一緒だ、中途半端じゃないか。へんなところで共生だって。なにか優しさ寛大さを表しているような錯覚を 持ってしまう。それがこわい。美しい言葉で飾られる、共生、違いを認め合う、多様性を認める、それだけ聞いたらすばらしいでしょう。だけどそんな形で、い てもいいよって言ってもらっているその人の本当の思い、それをアンダスタンディングしてない限り、なんかこちら側の自己満足でよしとしてしまう怖さがある んじゃないか。だからナンバーワンよりオンリーワン、たしかに一歩登ったんだけど、そこで満足しないでもう一歩踏み込んでください。生徒たちにもそういう メッセージをぜひ送って欲しい。
私 は野宿している人、別に構いませんよって、平気で素通りできるんですよ。本人がいろんな選択肢の中から選んで野宿しているんなら、行政代執行があった場合 あんたがつらい思いをするだけだよ、と引導わたせばすむんです。でもこんなところでテントなんか張っていたくない、段ボール1枚 でなんでアーケードで寝なきゃいけない、という人に対してそれを「認めてあげる」ことがなんかすごいキリスト教的な広い心であるかのようにもし錯覚してい るとすれば、これほど人権をないがしろにしたことはない、むしろ敵対してくれた方がまだ正直こっちだって考えます。いいよ、いいよって知らん顔して行かれ たらもうお手上げです。
そして3番目です。愛することよりも大切にすること、皆さん、今キリスト教学校の先生方ですから、キリスト教精神ということは当然、愛の精神ですと、お互いに納得してしまっているんじゃないかということです。釜ヶ崎に来て2,3年 たった頃、出会った人について、自分の父親と同じ年代かな、自分と同じかな、弟と同じくらいかな、とか、たまに女の人がいるとおばさんと同じかなとか、結 局身内の関係でみて、愛せるようにがんばりたいと努力したんですよ。皆さんもだれか、愛さなくちゃと、お互いに愛せるようにと、努力目標があるわけで しょ。だれかのことを、どうも虫が好かなくてできれば顔を見たくない、それだと自分がだめなんだ、キリスト教学校で教師としてやっていながらこんな度量の 狭いことじゃだめだなと自分で反省するしかない。だけど、この人を愛さなくちゃと思うとき、愛の具体的なサンプルは何かというと、たいていの人が自分を愛 してくれたお母さんとか、父親とかしたってくれる兄弟姉妹とか、年配の方だとお孫さんとか身内の中でだいたいイメージして、この人に自分の父親のように関 われるだろうか、そんなところからいくとしたらもうお手上げです。たとえば清水の舞台から飛び降りるつもりで覚悟して、野宿している人を父親と同じように 愛そうと思って、自分のアパートに連れて行く、でも私のアパートは2畳しかないでしょ。そこに冷蔵庫、机があって、余っているのは畳1枚 分くらいなんです。布団をおくとそこも使えなくなるので寝袋で寝ているんですけど、そこに連れてきたとして、その横に寝ているおじさんをどうするのか。そ の次のおじさんも。一人だけ連れてきて、後じゃ、あんた明日ねって。それじゃ、その人連れてきたら今日連れてきた人はおっぽり出すわけ?自分の父親だった らそんなことしないはずじゃないですか。
イ エス様はものすごい貧乏だったわけでしょ。ユダヤの律法に照らして明らかに罪の子と見なされていたわけでしょ。マリアさんから生まれてしかもヨセフさんの 子じゃないと分かっている。あとは姦通とかあるいはレイプされたか、少なくとも同時代の人はそんなことしか見ないから、村の人たちは罪の結果生まれた子と しか見ていなかった。だから職業も一般のユダヤ人たちと同じ仕事に就けなかった。だから石切の仕事、手間賃仕事だったわけでしょう。あれ、大工と訳してい るんですけど、あれ絶対間違いです。「テクトン」は「着る人・掘る人・削る人」としか訳せない。大工さんなら別の「オイコドモス」というギリシャ語。その 家を建てる人が材料として使う石のブロック、それを朝から晩まで一個いくらで作る仕事がテクトンの仕事。とことん貧しい。そのイエスが自分の父親、母親、 兄弟姉妹のように一人一人を愛しなさいといっただろうか、そんなことを本人が期待しただろうか。まずありえない。
愛っ て言葉は「アガペー」、家族の愛、夫婦の愛、親子の愛、兄弟同士の愛、孫への愛、これはギリシャ語に戻すと「エロス」です。種の保存のために必要な神様が 用意してくださった愛、それがエロスです。親子夫婦恋人同士、みんなエロス。これを愛と訳すのならアガペーは愛と訳さないでください。エロスは隣のご家族 にあてはめることはできないんですよ。自分のだんなさんを愛するように隣のだんなさんを愛することなんてできないでしょ。だから、そういうことをイエスは 求めたんじゃない。聖書には一回もエロスの話は出てこない。それを普遍化しなさいって言っているんじゃないんです。もう一つ「フィリア」は友達の関係性を 表す。これは好きとか好ましいとか信用できるとか、そういう関係性。これも普遍化する必要はないんですよ。自分に本当に気の置けない友達がいるから、同じ ような思いを他の人にも向けられるように努力しなくちゃ。これがキリスト教精神だとずっと教わってきたわけです。好きな相手と好きでも何でもない相手がい ても全く支障はないんです。けれどもアガペーに関してはイエスは普遍的に要求するんです。相手がどんな人であっても互いにアガペーを持ち合ってください。 敵に対しても、意見のすりあわせとか歩み寄りとか絶対やっちゃ行けないはずの敵に対してもアガペーを持ってください。隣人を自分と同じようにアガペーして ください。それはエロスではないんです。私が使っているギリシャ語の聖書ではアガペーのことはこんな風にかいてある。アガペー、すなわちto feel and exhibit esteem and good will to a person. loveもlikeも出てこない。感じて実行してください。尊敬して、その人にとっていいようにいいように感じて行動して下さい。これは実用的な言い方にすると「大切にする」ということじゃないですか?キリスト教精神とはアガペー、その人をその人として大切にする。
だ から「愛情さえあれば」というのは間違ったところにいきますね。孤児院で育ったために親の愛情を経験していないんです、といったらそれを理由に「あ、それ で問題があるんですね」とそんな判断を意外と世間ではしてしまうんですね。愛情よりも大事なのは大切にされたの?大切にしてくれる人はいたの?ということ で問題はそこなんです。施設であっても担当の人が、自分の子と同じように愛情は注げなくてもかけがえのない一人として大切に大切に関わっていたら他の人と ほんとに同じなんです。
社 会で弱い立場にたたされてしまっている人への関わりは様々です。先生方には優秀な子どもたち、教えやすい扱いやすい子どもたちもいるでしょうが、もう今日 休んでくれるとうれしいのにと思うような子どもたちもいたりするかもしれませんね。そういう仲間、子どもたちに対する関わりの姿勢、愛せるまでにと努力す る人もいるかもしれません。以前私もそうでした。愛するようにならなくちゃと、自分のように愛しなさいというそれを実行しようと思っていました。でも、あ るとき気がつきました。愛そうとする自分の気持ちを大事にするあまり、一方的になんとか愛を傾けようとしていた。そのために愛される側にたたされているの その子、労働者、その人の本音の部分、本当の願いになかなか気がつかない。関わりがどうしても憐れみとか施しになっちゃう。だけど、エロスとフィリアとア ガペー、この三つをきちんと分けて考えたとき、三つとも人をつなぐ大事なエネルギーです。エロスはいつか薄れてしまう。フィリアはとぎれてしまう。友達づ きあいがなくなってしまうことはあっても別に不思議じゃないんです。それは心配しないで下さい。愛情を感じなくなった、好きだと思わなくなった、と心配し なくてもいいんだ。キリスト教的精神で生きようとするとき、そのことで悶々とする人がけっこういるんですよ。しかし自分が大切なようにその人が大切にされ てほしい、そんな風に思い続ける限りアガペーは薄れることもとぎれることもない。ですから、社会で学校で弱い立場、小さくされている、つらい思いをしてい る誰かの前に立つとき、この子を家族のように愛せるだろうか、親友のように好きになれるだろうかと自分に問うことはやめなさい。できるはずがない。やらな いことにするんです。自分自身が大切なように、自分が大切に扱われて欲しいようにその彼・彼女も大切に……、そこにケアを集中して関わる。そのとき互いの 尊厳を認め合う関わりがはじまるんです。神はアガペーである方、アガペーは愛であると翻訳されてきたけど愛じゃないんです。アガペーは愛であるではなくて 「人を大切にされる方」なんだよ。神は人を大切にされる。ですから、礼拝のはじめに読んで貰った本聖書の箇所を私なりに訳し直したものを読みます。皆さ ん、どこが違うか目で追ってください。31節 からいきます。「あなた達はもっとも偉大なカリスマを熱く求めてください。最高の道としてそれをあなたたちに示します。たとえ私が異なる言葉で話し、御使 いの言葉で話せるとしても人を大切にしないなら、私は音を立てる銅鑼、けたたましいシンバル。たとえ私が預言する力をもち神秘の全て、あらゆる知識に通じ ていても絶対の信頼を持って歩みを起こし山を移すことができたとしても、人を大切にしないなら私の存在は無意味です。たとえ私が全財産を炊き出しに注ぎ込 み我が身を投げ出して、それを誇りに思ったとしても、人を大切にしないなら私に益するところはありません。」本田、勝手に炊き出しなんてそこに入れるな よ、と思ったでしょうが実際こうなんです。聖書で普通パンを食べるというのに使う「ファゲイント」という言葉と違うんです。パンの一切れ、お鍋に残った スープの最後のしずく、それを提供する、そういうときに使う「プソーミソー」というギリシャ語は今で言う炊き出しだな、と。悪くないと思います。
「人 を大切にするとは忍耐強く相手をすること、人を大切にするとは思いやりを持って接すること。人を大切にするとはねたまずうぬぼれず、思い上がらずめざわり なことをせず自分の利を求めず、いらだたず人の意地悪を根に持たず、人を不正に抑圧して喜ばずともに真実を喜ぶこと。人を大切にするとはすべてを包み込み 何事も信頼して歩みを起こし全て確かなことに心を向け、どんなことにもめげずにたち続けること。人を大切にすることは決して途絶えることはない。」
愛 は途絶えているのが事実でしょ。ご家族ご夫婦親子…適当なところで途絶えてくれないとやっぱりしんどいところがある。途絶えないといっているのは愛のこと を言ってるんじゃなくて「大切にしあう」という、その姿勢なんです。だから、ラブラブが続いているから問題ないということじゃなくて相手の尊厳を大事にし てるか?そこが問われていることを忘れないでほしい。それがあれば立派なキリスト教精神なんです。福音的な精神です。
これは宗教を 超えてしまうわけなんです。私が今到達している受け止めとしては、キリスト教によって人は救われるわけでも解放されるわけでもなかったんです。じゃ、ほか の宗教の方がより正しいかって、ほかの宗教もおっつかっつじゃなかったかなと。人間は宗教によって救われるんじゃないんだ。だからキリスト教精神に基づい た学校かもしれないけど伝道とか布教とかしなきゃいけないという、それを超えてくれたほうがイエスの感性にもっと近づくのではないかな、と思います。
「大切にしよう」 それは、普通に言えば、「人権の感覚」なんだと思います。